心の哲学における私の仮説

心の哲学についての私の仮説。

ー意識の現前には何も存在しない。意識の背後に器官なき身体(欲動)が、宇宙(法則)が、超越(偶然)が存在する。立ち現れる現象の中で、質と量は重ね描かれている。ー

認識論から出発した時、私は私というフィルターを通した世界しか見ることができません。その世界を「現象界」と呼びます。ですから、身体や物質や他者も私の現象界の中に存在します。しかし、意識が単にその表層的なものだけならば、なぜ私は現象界を明晰夢のように自在に操れないのでしょうか?私が現象界を自在に操れないという現実が、私の意識をさらに背後で支配している意識があることの間接証拠(傍証)となります。

それを「無意識」と言います。ユングは無意識には「個人的無意識」と「集合的無意識」があると考えました。私もこれに同意し、個人的無意識は欲動によって私を個人的に支配すると考えます。また、現象界では他者に意識があるかどうかを確かめる手段はありませんが、私は他者にも私と同様の意識があると前提します。では、私の主観的な現象界の中で、意識を持つ他者も共存できるのはなぜでしょうか?それを説明するのに集合的無意識が必要なのです。集合的無意識とは、他者(意識を持つ全存在)に共通の法則を司る領域です。共通の法則によって私たちは支配されているので、私たちは各々の主観的意識を持ちつつも、現象界の重なり合う部分においてコミュニケーションや共存が可能なのです。

集合的無意識の法則は、私の意識にとっては、現象界の物理法則や哲学的構造と同じように感じられます。集合的無意識と現象界は意識を通して繋がっているからです。だから、私たちが現象界の物理法則や哲学的構造を研究することは、集合的無意識について研究していることと同一(重ね合わせ)です。こうして「唯心論」(精神のみ)と「唯物論」(物質のみ)は無意識を想定することでその両面性を説明できるのです。私のこの立場(仮説)は、「中立一元論(性質二元論)」に分類されます。

集合的無意識の法則は、真と偽の両面が存在する空なる世界です。現象界を探究する人間の意識は、理性(真・偽)と感性(どちらでもないもの)によって対象物を把握します。しかし、私たちは集合的無意識を直視することはできないため、その法則を完全に把握することはできません。あくまでロジカルに体系化することしかできないのです。物質を意識に還元することも不可能です。だからこそ現象界なのです。しかし、現象界は私の主観的世界だからといって、完全に相対的な世界でもありません。私を無意識を通して直観的に支配する法則は普遍的だからです。私たちは集合的無意識が投射する仮想現実の中で共存しているのです。

しかし、こうした無意識の法則そのものが絶対的に普遍的なものかどうかまでは不明です。長いスパンで見れば、集合的無意識の構造もまた変化しているかもしれません。この「〜かもしれない」という可能性(ポテンシャル)の観念は根源的です。それゆえ、私たちにとって絶対普遍的な超越概念は、変化し得る法を超越する非対象性(対象xなき対象)そのものです。非哲学的な、集合的無意識をも司る「対象なき超越性」、「絶対的偶然性」が意味するところの実体は、この世界の外部にあるものと規定されます。

かつてプラトンは、現象界に存在する我々が直観的に実在的なもの(イデア)を想像できるのは、我々は本来イデア界に住んでおり、それを現象界で想起しているからだ、と述べました。それを「想起説」と呼びます。無意識はこの比喩が意味するところを説明できます。

元々、論理や数は生物進化の過程で、現実を把握し、未来を予測するための道具として発達したと考えます。視覚的な自然数の概念がそのはじまりだったはずです。だから現実生活スケールではある程度実用に問題ない程度に数えられるのに、抽象度を上げてよりミクロなスケールを扱うと、とたんに無理数など割り切れない数が生じてくるのです。マクロのスケールでは古典力学が実用的でも、ミクロのスケールでは通用しないのもこれと無関係ではありません。だからといって抽象度の高い思考が現実生活に無意味かというとそうではありません。純粋に抽象思考によって導き出した解が、後々の時代で大いに役に立つことが多々あります。発見が先で実用が後のケースも多いのです。ですから、一見実用性がないような作業こそは大切だし、抽象世界の法則は全くの空想ではないということが分かります。これは無意識に法が関与している間接証拠であり、「プラグマティズム(実用主義)」への批判となります。

私たちは個人的無意識のレベルで、イデア(完全性=美)に対する無根拠で無際限の欲動を持っています。これは美のイデアへの憧れというエロス(愛)であり、これがあるため、人間は向上心や理想を持って生きています。これに到達することは現実的に不可能です。だから、これは苦痛であると同時に喜びでもあるのですが、そうした絶えざる運動こそが生きるということであり、生命の証です。脳科学の統一理論として理論化された「自由エネルギー原理」と呼ばれる予測(理想)と現実の一致を目指す絶えざる生命運動は、ホメオスタシス(恒常性)の維持という形式を持つので、生への衝動は表層意識を持たない単純生物も持っていると言えます。

イデアの追求は美の追求ではあるのですが、現実世界では醜の部分もあります。美醜は裏表でもあります。例えば、数学において、公理系に反する「虚数」を用いることで、オイラーの公式のようなこの世で最も美しいと称されるような公式が作られます。物理学でも虚数は必要です。美を追求すると、美醜が表裏一体となった、矛盾を抱えた世界に到達します。しかし、それこそがより根源的なイデアなる美、空なるイデアなのかもしれません。

私は、学問はその根底に「宗教」があると考えています。我々が世界を認識して活動するためには何らかの「前提」への信念が必要だからです。さらにその上に「芸術」があると考えます。心にある表象を何かを通して外部に表現すること、これが芸術だと思います。表現法は、視覚的でも、聴覚的でも、触覚的でも、言語的でも何でもいいのです。これは個々の人が表現する「可能世界」の描出なのです。しかし、「哲学」は言語を用いて論理的にこれを表現するという点で制限をかけています。とはいえ、扱う対象は意味そのものであり、それ以外に限定していません。ですから、哲学とは、意味論全般を扱う可能世界の探究なのです。哲学から出発して、数学は数に対象を絞った学問です。「哲学」と「論理学」と「数学」は他のあらゆる学問の根底にあります。これらは直観や論理的な正しさを基準にして意味の妥当性を確かめる学問です。その上に「自然科学」があります。これは物質世界を対象として扱い、実験によって仮説の妥当性を確かめる学問です。次いで、「社会科学」があります。これは人間の社会的行動や活動を扱う学問で、主に統計を用いて仮説の妥当性を確かめる学問です。次いで、人間そのものの探究、「人文科学」へと一巡して戻ってきます。学問は、このように宗教と芸術を根底に置きつつ、哲学・論理学・数学を基礎にしつつ、扱う対象を広げているのです。そして、それらは生への衝動であり、高度な遊びであり、イデアの追求なのです。それらは可能世界の探究を意味しています。イデア(真理)そのものに触れることはできないので、その周りからアプローチして、その多面的な輪郭を描きだそうという人間の飽くなき挑戦なのです。

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