嘔吐

久しぶりにnoteを開いたら、タイトルに「嘔吐」とだけ書かれた下書きが残っていた。

それを書こうとした時、私はおそらく「嘔吐」について考えていたのだと思うのだが、如何せん酒に酔っていてよく覚えていない。

そういえば心療内科へ通う道すがら、「実存は本質に先立つ」ことについて調べていたような気がする。

そして、昔誰かから言われた「あなたはこのままでは何者にもなれない」という言葉についても考えていた気がする。

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私は高校時代、倫理の先生が好きだった。

その先生はなぜかいつも白衣を着ていて、ひょろりと細長いシルエットに不可思議な笑みをたたえた人だった。

おそらく、彼に何かしら授業を受けた人であれば、覚えている人が多いのではないだろうか。

その人には奇妙な引力があった。妙に人を惹きつける感覚があった。その先生の授業は、倫理などという当時の高校生からすれば無価値に見える科目にも関わらず、「これは学ばなければいけない」と思わせる魅力があった。

その人の座右の銘は「実存は本質に先立つ」だった。その意味は、当時高校生であった自分にとって、全くピンとこないものであった。

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時が経ち、ふとしたきっかけでその先生の名前を見つけた。その先生が赴任してきたのは私が高校2年生の頃だったが、その前に教鞭をとっていた高校の生徒たちの口コミだった。

「複数の生徒と不適切な関係を持って飛ばされた」という疑惑。

なんとなく私は、もはや郷愁的な気分になっていたと同時に、「そうかもしれないし、そうでないかもしれないし、そうであっても、どうでもいいんじゃないか」と思った。

(・・しかし、冷静に考えてみれば、もしその先生が「生徒と不適切な関係を持った」ことに対する懲罰で他の高校に飛ばされたのだとしたら、そもそも私の通っていた高校に来るだろうか?そして、私の高校にあっても、その先生は変わらず生徒の悩みや話を親身に聞いていた。学校の準備室という特にプライバシーのないような部屋ではあったが、それでも生徒が代わる代わる訪れてはその先生と話したがった。それを嫌がる様子も、遠巻きにするような様子も全くなかった。もし、過去にそういった行動によって痛い目にあっていたのだとしたら、そんなことを続けるだろうか?)

正直に言えば、その先生に好意を寄せていた女生徒は多かっただろう。世に言う有り体なイケメンと言う訳ではないが、どこか不思議な魅力があった。同時にどうにも、浮世離れした雰囲気があった。その人と添い遂げられる女性がいるのなら、その人も大概どこか浮世離れした何かを持っている女性だろうと思わせるような空気。そして、いくら歴任してきた(そして、その後も教鞭をとっていく)高校の偏差値が多少なりと高いとはいえ、そんな達観した女子高生が世の中にそうゴロゴロと存在しているものだろうか。

とはいえ、「人とはどこか違う世界線を生きている人間」の感性は独特である。そういう人間が、何かどこかしら「壊れている」ことは、今までの人生でもはや目に余るぐらいに見てきた。それを見すぎて、当たり前に「結婚して妻や旦那がどうの」なんていう人に対して、「へー」と白けた顔をしてしまうぐらいには。それは、もちろん、男女関係や性的な視点についてもだ。

そう考えれば、もしかしたら実際に彼は女子高生と関係を持っていたのかもしれない。

しかしそれを想像しても、嫌悪感の一つ足りとも湧き上がってこなかった。むしろ、どんな人間なら彼の寵愛を受けるに至ったのだろうという疑問に、興味すら湧いてしまった。

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「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」とは、サルトルの内縁の妻であるポーヴォワールの言である。サルトルと彼女はお互いの性的自由を認めながら、伴侶として連れ添った。

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件の先生も、それなりに年齢を重ねていたようだったけれども、戸籍上の妻という人はいなかった。

もしかしたら、彼には性的な関係以前の「何か」で、深く繋がったパートナーがいたのかもしれない。そして、その関係性はもはや、身体がどうのというようなレベルを超えていたのかもしれない。だとしたら、その辺りの何も考えていないような異性など、所詮は「女の形をした道具」だったのかもしれない。

まぁ、考えすぎなのかもしれないが。

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結局、私はその先生となにがしかの関係すら持っていないが、さて、私の容れ物がもっと見目麗しければどうだっただろうか。

何とも言えない気持ちに苦虫を噛み潰しながら、私は「女という容れ物に甘えない人生とは」と、ぼんやりと途方にくれているのだった。

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