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日本ベッドを語ろう

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日本ベッドは昔ながらの「宣伝下手」。「よき製品はよき宣伝也」、よいものをつくっていれば自然に皆さまに伝わると信じて長年マットレスをつくって参りました。でもこれからは、少しずつ自分… もっと読む
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日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その1「フレックスアセンブリ」

日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その1「フレックスアセンブリ」

日本ベッドのマットレスのつくり方には、大きな特徴が4つあります。
ひとつずつご紹介して参りましょう。

point1:フレックスアセンブリ

フレックスアセンブリは、横になるときの体を均等に受け止めるユニット成形の技です。
ユニット(スプリングユニット)というのは、ポケットコイルマットレスの芯の部分、ポケットコイルスプリングがまとまりになったもののことを言います。

日本ベッドは、独特の方法でこの

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日本ベッドの歴史(9): 初代シルキーポケットとスリープソリューションのはじまり  ─1990年代─

日本ベッドの歴史(9): 初代シルキーポケットとスリープソリューションのはじまり ─1990年代─

1990年代は大きな転換期

1989年の初めに、元号は昭和から平成へと改まり、続く1990年代は変化の大きな時代となりました。
1980年代後半から始まったバブル景気は、1991年に終わりを迎え、大きな事件、大震災、政治的変動など、日本内外共に大きな転換期に入ります。

バブル期には、人々はラグジュアリーな感覚を追い求めました。
家具業界に於いても、海外高級ブランドの日本国内出店など、ラグジュア

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日本ベッドの歴史(8): プラットフォームタイプのヒット ─1980年代後半まで─

日本ベッドの歴史(8): プラットフォームタイプのヒット ─1980年代後半まで─

1981(昭和56)年、ボンネルスプリングマットレス全盛の時代に、日本ベッドは独自の発想で開発した新しいポケットコイルマットレスを上市しました。同じ頃、ベッドフレームにもヒット商品が生まれていました。

1970年代から80年代の住宅事情

1970年代初頭に180万戸余程もあった新設住宅の着工数は、二度にわたるオイルショックの影響を受け、1970年代後半には120万戸弱に減少しました。

当時、

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日本ベッドの歴史(7):独自技術のポケットコイルマットレス ─1980年代─

日本ベッドの歴史(7):独自技術のポケットコイルマットレス ─1980年代─

ボンネルスプリングマットレス 主役の時代

1950年代、日本ベッドで最新式の量産品といえば、連結式のボンネルスプリングマットレスでした。

この時期の日本ベッドカタログに、マットレスの種類を紹介したページがあります。

当時のマットレスには大きく分けて、「スプリングを使っているもの」と「スプリングを使っていないもの」の二種類がありました。
最高級とされたのはやはりスプリングマットレスで、日本ベッ

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日本ベッドの歴史(6):迎賓館納品とJIS規格 ─1970年代半ば─

日本ベッドの歴史(6):迎賓館納品とJIS規格 ─1970年代半ば─

迎賓館赤坂離宮に納品

日本ベッドは1970(昭和45)年、茨城県常総市に敷地面積 58,000 平方メートルの自社工場を完成させました。日本ベッドのマットレスは、この自社工場で一枚一枚丁寧に製造されています。

同年開催された大阪万博では、三洋電機グループのサンヨー館に「未来のベッド」を展示。日本ベッドは次々と、様々な挑戦を行っていました。

1974(昭和49)年には、東京都港区に迎賓館赤坂離

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日本ベッドの歴史(5):茨城工場の完成

日本ベッドの歴史(5):茨城工場の完成

全国へと発展した1960年代

日本ベッドは高度成長期の波に乗って、発展しました。
1960(昭和35)年には大田区久が原にも工場を建築。続く数年の間に、大阪、名古屋、九州にも営業所を開設しました。

1965(昭和40)年には、大田区池上の本社工場を建て替え、6階建ての新社屋を完成させました。
1階から3階はショールームとして、お客さまをお迎えするスペースに。
この頃、カタログに掲載されていたの

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1970年の大阪万博「未来のベッド」

1970年の大阪万博「未来のベッド」

今回ご紹介するのは、1970(昭和45)年開催の大阪万博に出展した「未来のベッド」。
三洋電機グループのサンヨー館に展示されました。

三洋万国博企画実行委員会がプロデュースした「サンヨー館」は、大阪万博の目玉パビリオンでした。

「未来の生活空間」を演出した「ファミリー・コーナー」には、当時の最新技術を駆使した展示品が並べられました。
人間洗たく機(ウルトラソニック・バス)、フラワーキッチン、万

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日本ベッドの歴史(4):戦後~高度成長期のカタログ

日本ベッドの歴史(4):戦後~高度成長期のカタログ

手づくりのポケットコイル

1946(昭和21)年、社名を「日本ベッド製造株式会社」とした日本ベッドは、進駐軍、官庁、ホテル、船舶運営会など、大口の取引先を得て、地道に商いを広げていきました。

まだ生産設備機械が凍結されていた時代で、マットレスの中身のスプリングはほぼ全て手づくり。スプリングユニットは、糸で刺してまとめる方式でした。

ポケットは農業用の寒冷紗と呼ばれるような平織りの綿布を糊付け

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ご存知ですか?マットレスの「ローテーション」

ご存知ですか?マットレスの「ローテーション」

皆さま、お使いのマットレスの向きを、入れ替えたことがおありでしょうか。
日本ベッドでは、マットレスのローテーションをおすすめしています。

ローテーション、つまり「回転させること」「交替すること」。
マットレスの前後(頭の方と、足の方)、表裏(上にして使っていた面、下になっていた面)をひっくり返すことをいいます。

ホテル業界では当たり前のように行われている作業ですが、一般のご家庭で、まめにやって

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日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その2「ロールガード」

日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その2「ロールガード」

日本ベッドのマットレスのつくり方、4つの大きな特徴のうち、二つめは「ロールガード」です。

point2:ロールガード

日本ベッドでは、マットレス本体のサイドを ロールガード と呼ぶ方法で仕上げます。この方法で仕上げると、マットレスサイド(つまりマットレスの「へり(縁)」の部分ですね)の、体への当たりは格段にやわらかくなります。

一般にポケットコイルマットレスは、大きく分けると次のような各部分

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日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その3「まっすぐなテープエッジ」

日本ベッドのマットレス 4つのポイント:その3「まっすぐなテープエッジ」

日本ベッドのマットレス製造法、三つめの特徴は「まっすぐなテープエッジ」です。

point3:まっすぐなテープエッジ

日本ベッドのマットレスは、ふちがまっすぐです。

といっても、今時、ふちがうねうねと波打っているような頼りないつくりのマットレスはそうそうありません。たいていのマットレスは皆、きちんとしっかりした姿で綺麗に売り場に並んでいます。まっすぐ仕上がっているからというだけではあまり自慢に

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日本ベッドの歴史(3):戦後の本社工場

日本ベッドの歴史(3):戦後の本社工場

1946(昭和21)年、日本ベッドは社名を「羽根工業社」から現在の商号「日本ベッド製造株式会社」に改めます。

戦後の住宅不足は著しく、戦災復興院(1945(昭和20)年設立の政府機関)の発表によると、全国での不足数は420万戸にも及んでいたようです。
日本ベッドは進駐軍を筆頭に、官庁、ホテル、船舶運営会などに製品をお納めしていました。

戦後、池上の本社工場

写真は戦後間もない頃、大田区の池上

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日本ベッドの歴史(2):初期のカタログ ─1920年代から1930年代─

日本ベッドの歴史(2):初期のカタログ ─1920年代から1930年代─

日本ベッドの創業者 宇佐見竹治は、若い頃、帝国ホテルのページボーイとして働いていました。 この経験は竹治に「快適な睡眠」の重要性を意識させるきっかけとなります。

帝国ホテル時代に英語を習得し、能力を生かして商社マンとしてイギリスへ渡った竹治。
日本では見られなかった「ベッドで眠る」ライフスタイルに感銘を受け、帰国すると早速、寝具の商いに取り組みました。
日本ベッドのマットレスメーカーとしての歴

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日本ベッドの歴史(1):創業前夜

日本ベッドの歴史(1):創業前夜

宇佐見竹治、創業前年に秩父宮殿下の白馬買付に

下の写真は、日本ベッドの創業者 宇佐見竹治が、創業の前年である1925年(大正14年)に、秩父宮殿下の白馬買付に随行申し上げたときのものです。

その頃、宇佐見竹治は商社マンとして英国に赴任していました。
英国赴任の裏には、竹治の向上心と弛みない努力がありました。

竹治が語学習得に励んだ帝国ホテル時代

明治末期、創業者の宇佐見竹治は、帝国ホテルに

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