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「僕がイラストレーターになるまでの長く曲がりくねった道」 その①

イラストレーターとして

2022年のこの5月で僕はイラストレーターになって30年が過ぎた。
僕はイラストレーターとしては遅咲きで、絵だけで飯が喰えるというプロのイラストレーターになれたのは30代も後半、40も目の前という頃だった。それから30年間、僕は職業イラストレーターとして生きて来た。ある統計によれば、10年仕事を続けられるイラストレーターは全体の10〜20%だそうだ。信憑性の程は知らないが、30年やった僕は多少は頑張ったのだろうか。既に結構どころか中々いい年だ(笑)。

さて、今週はちょっと恐縮だけど、そんな僕自身のお話。

僕は一介のイラストレーターに過ぎないし、これから読んで頂く記事は特に人生の含蓄に富んでいるわけでもなく、教訓めいたところもきっとない。つまるところ、太鼓判押しで何の役にも立たないエッセイかも知れない。

けれども、もしかしたら多少は面白いところがあるかと信じてお送りする。
何故ならイラストレーターの個人的な話というのは僕自身あまり見聞きした事がないからだ。

では、では、ご笑覧&ご失笑頂ければこれ幸い・・・・

思い出すこと

僕は中学時代に和田誠さんや、「平凡パンチ」の大橋あゆみさんの表紙を見て、イラストレーターに憧れた。それが、僕の始まりだ。よくノートにイラストを描いていた。高校に入る頃になると今度は漫画が大好きになり、漫画家に憧れて漫画同人会を作り、漫画も描いた。

最初に自分の描いた作品が本に載ったのは15才/高校1年の時に雑誌に投稿した一枚のイラストレーションだった。

それは、1ページ大の大きな白黒のイラストで、掲載された本を書店で見た時はビックリして本当に飛び上がった(アニメみたいにね)。もちろん僕はその雑誌をすぐに買って帰り一日中眺めて阿呆のようにニヤニヤしていた。加えて、後日少額ではあったが何と画料まで届いた。生まれて初めて自分の描いた絵がお金になったのだ。あんなに嬉しいことは無かった。その画料でビートルズのLPを買ったのを覚えている。まさにI Feel Fine(The Beatles・1964年)と叫びたい気分。そんな事が高校時代に2度程あり、イラストを描くという事に僕は良からぬ(?)自信を持った(笑)

だが、それからイラストレーターになるまで実に四半世紀(25年!)に渡る長い年月が僕を待っていた。

その間、バイトに明け暮れたり、コンピュターゲームのキャラクターデザインやシナリオを書く仕事をやってみたりはしたが、自分が何をやったら良いのか??・・・自分は何者なのか??・・・
僕はそれを中々見つけられないでいた。

さて、東京へ出た僕は高校時代の終わりからに描いていた16ページの青年向け漫画を持って出版社を回った。幸いな事に、すぐに小さな出版社が買ってくれた。自分の描いたマンガが売れたのは初めてで、本(雑誌名を覚えていない)に載り原稿料も入った。けれど、高一の時に初めて自分のイラストが雑誌に掲載された時ほどの喜びは何故か無かった。その頃、北冬書房という小さな出版社から「夜行」という厚表紙の立派な装丁の漫画本が出版され、つげ義春氏等が寄稿していたこともあり、コアな漫画ファンの注目を集めていた。そこに十代の最後に描いた32ページの作品を持ち込むと、編集長の高野氏は「うち、原稿料、安いよ」と笑いながら僕の作品を見てくれた。その作品は後日「夜行」に掲載され、僕を驚かせた。だが、やはり高校の時のような感慨は何故か無かった。自分は漫画には向いていないような思いがした。

20歳を回った頃、僕は時々出版社から依頼を受けてイラストを描いていた。下は22〜25歳頃のイラスト。これで飯が食っていけるのなら何より幸せ♡、と思っていた。この頃にお付き合いのあったのは、双葉社、講談社、光文社、など。イラストは自分の性に合っていた。

<上/「ヤングレディ」(講談社)下「女性自身」(光文社) 1975年頃 ©もりおゆう>

だが、この世界、勿論そう甘くはない、、、
まだ自分に力が無かったのだろう、イラストの仕事は不安定で、僕はアルバイトに明け暮れた。バイトをしながら画力をつけるために毎日デッサンを最低1枚だけでもやる、そして本を1日1〜2時間は読む。それぐらいはやろう・・・いや、やらねば、と思った。

とはいえ、たかが1枚のデッサンだったが、それは思った以上に僕を苦しめた。ただ絵が好きで気侭にデッサンをやる事と毎日それを自分に課す事は全く意味が違った。毎日毎日やっていると、バイトから帰ってきてスケッチブックを開くだけで気分が悪くなるくらい嫌な日もあった・・・本当に吐きそうになるのだ。貧乏くさい話で恐縮だが、スケッチブックなど買う金もないから、チラシや新聞広告の裏に描いたりもした。そうして、瞬く間に7年、8年と年月が流れていった・・・。

相変わらずイラストの仕事は全く不安定で・・僕は目的を見失っていった。何の為にデッサンを来る日も来る日も続けるのか? 何の為に毎日1時間2時間と本を読むのか?
そもそも自分は本当にイラストレーターになりたいのだろうか・・・?

これは、その頃のデッサン。

<左手のデッサン ©もりおゆう  ヌパステル/セピア A3>

言っておくが僕は貧乏自慢をする気はない。自分の好きな事をするのだからそれは当たり前のことだと思っていた・・・もとい、勿論金がないことが辛い日もやはりあった。カッコつけちゃいけない(笑)。

けれど、僕を一番苦しめた事はもっと他のことだった。

僕には社会の中で自分が浮いてしまっているような不安が何時もあった。身一点になる感覚が無かった。自分は何をやっているのだろう…何になりたいのだろう…自分は何かになれるのだろうか・・・
そんな不安が何時も傍にあった。

そんな頃、郷里に帰った際に高校時代の友人と喫茶店で会った。
彼は昔一番仲の良かった友人だった。奥さんと同伴で現れた彼は大学を卒業し、今は郷里の老舗企業で忙しく働いていると語った。

「それで、お前は何をしとるんや? まだ、イラストとか漫画とか描いているわけ? いい気なもんやな」

社会の中で揉まれて働いている彼は、半ば呆れて僕にそう言った。
僕は返す言葉に窮した。
その白けかけた座を彼の奥さんが取りなすように言った。

「ゆうさんは、まだ充電中なのよね・・・大丈夫これからよ」
と。

僕はただ自分を恥じた。僕には社会を生きているという実感がなかった。

「夢は夢やで、そんなもんで一生ご飯が食べられる訳がないよ、ゆう君」
高校を出る頃、仲の良かった義姉に言われたそんな言葉が胸をよぎった。

<「故郷を出る朝」© 2021 もりおゆう 水彩/ガッシュ>

当時は、一年に一度岐阜に帰省していた。
年末に帰り、年が明けると東京へ戻る。
その東京へ帰る新幹線の中で毎年思う。

『今年こそは何とかしよう・・何者かになろう・・・だが、僕は何になるのだろう???・・・』
と。

今年こそは、今年こそは、と毎年同じ事を繰り返した。
ただ時間だけが過ぎていった。

そうして、僕は無為に20代を終えた。
残ったのは山のようなデッサンと本だけだった。



この続きは明日「その2. 一瞬天国の光がかい間見えた」に続く・・・




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