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【今日のnote】やがて哀しきフリーランス。〜孤独な愚痴のエチュード。〜


 どうも狭井悠です。

 毎日更新のコラム、98日目。


二人でいると、彼は一人のときよりも孤独を感じる。
誰かと二人でいると、相手が彼につかみかかり、彼はなすすべもない。
一人でいると、全人類が彼につかみかかりはするが、その無数の腕がからまって、誰の手も彼には届かない。
—フランツ・カフカ—


※閲覧注意※

 ちょっと訳あって、9月12日の夕方から夜にかけて、めちゃくちゃ孤独で、最低な気分になりました。これまではあまり深く触れてこなかった、フリーランスという仕事の本質の、他人への伝え方について、考え直さなければならないと思ったのです。今まで、あまりにも甘い伝え方をしすぎてきたという後悔があります。だから、今日はもう、太宰治の「如是我聞」よろしく、愚痴を、本気で書きなぐります。フリーランスという生き方について、何か勘違いをしているような人間がいる場合に、はっきり伝えておきたいことを渾々と書きました。この文章は、哀しきフリーランスが深夜にひとり孤独に奏でる、愚痴のエチュード(習作)です。たまには、こんな日もあることをお許しください。孤独な男が世を憂う独り言に、喜劇や文学を感じて楽しむことができるような、ウィットに富んだ方だけが読んでいただければ結構です。

 これは、人生とは決して、簡単ではないということを伝える警鐘です。

 これはもう、誰かのせい、というよりも、元はと言えば、以前、酔った勢いで軽はずみに「会社なんか辞めても自由に生きていける」というような思い上がった発言をしてしまった、僕のせいなんだと思います。だから、言葉の高慢さのツケが、巡り巡って、僕のもとにただ、回ってきただけのことなんでしょう。

 けれど、それにしても、なんだか、あまりにも、残酷に疲れてしまった。

 フリーランスで受けている仕事の依頼が、月末にかけてパンパンに詰まっている状態で、あれこれと仕事のスケジュールをこなして何とか働いている中、ビジネスの交渉ごとの経営判断を脳みそがちぎれるほど考えている中、毎日更新のnoteでもインナーな内容のものを必死こいて連日休まず書いて精神をすり減らしている中、あげく「フリーランスとして積み重ねてきた生き方を軽視されるような出来事」が重なったので、なんだかもう、久しぶりに何もかも投げ出してしまいたいくらいどっと疲れてしまい、ここ数日、炭水化物断ちをしていたにもかかわらず、22時頃に車を飛ばして、山盛りの二郎系ラーメンを食べにいき、そのまま、腹一杯でシャワーも浴びずにベッドに飛び込んでニンニク臭いままでふて寝をしていたら、深夜0時すぎに代理店さんから新規案件の依頼の連絡が入り、反射的に電話をとって、寝ぼけまなこでGoogleカレンダーと睨めっこをしながらスケジュール調整をして、少し目が冴えてきたので、9月13日の毎日更新のコラムを書くために、こうしてnoteに向き合っています。

 今は9月13日の午前1時です。

『ひとつだけ言えることは、僕は誰のこともアテにしてなんかいないし、期待もしていないのに、なぜ、世界に存在する、他人のあらゆる面倒事が、我が物顔で、僕の前に押し寄せてくるのかがわからない。そもそも僕は、この世で生き残っていくための具体的な方法について、今まで誰かに相談したり、判断をあおいだり、助けを求めたりしたことなんて一度もないのに、なんでこうなる? 僕はこれまで、脳みそがちぎれるくらい、自分ひとりで、生き残る方法を孤独に考えて、必死で調べ上げて、七転八起して、実践して、それを繰り返して、なんとか今日まで死なずにやってきた。そうして辛酸を何度も舐めながら、恥を忍んでやっと手に入れてきた僕の人生の答えを、なぜそんなにも、簡単に手に入れたがる?』—狭井悠—

 なんだか、フリーランスという生き方について、方方にいろんな勘違いをさせて生きてしまっているような気がしていて、ほとほと自分が嫌になってしまいます。僕はだいたい、東京で人と会ってお酒を飲む時は、羽振りよくヘラヘラと楽しそうにしていることがほとんどなので、あいつは、好きな時間に仕事をして、好きな時間に寝て、うまいもん食って、酒飲んで遊んでいるみたいだから、フリーランスなんて、きっと楽勝なんだろうと、僕を見ている人には思わせてしまうのかもしれません。だとしたら、それは僕自身の罪でもあります。

 でもね、そんな簡単に、人生イージーモードで生き残ることができるならば、皆同じように会社をやめて、好き勝手に生きているはずなんですよ。それに、フリーランスって本質的に全然、楽な仕事なんかじゃありません。すべて自分の責任でやらなければならないし、失敗も許されない。実務も経営も経理も総務も、すべて自分でやらなければならないんです。誰も助けてなんかくれない。ひとりぼっちの事務所で延々と仕事をする。時には昼夜を問わずにやる。納期は絶対に守る。クライアントにはいつも謙虚に接する。それでいて、我慢できないことははっきりと言う。それらの判断はすべて自分で決める。そんな生活、楽なわけないじゃないですか。

 僕がこれまでの人生の中で支払ってきたあらゆる代償のことを知らず、受けてきた幾多の傷の痛みも知らず、どんな想いで毎日こうして血だるまになりながら文章を書いているのかも知らず、僕が今、なんとか苦難から這い上がって、やっと元気になって、たまに羽目を外している姿だけを見て「あいつはいいよな、気楽で。あんな調子でフリーランスをやっているなら、きっと俺らにだってできるだろう」とか「あの人があんな風にフリーランスで楽に生きられているなら、やり方を聞いたら、私たちもきっとなんとかなる」なんて考えている人間が、もしもどこかにいるんだとしたら、どうやって僕が、社会の輪からはみ出したような形で、東京から都落ちして、世捨て人のように地方在住フリーランスを始めて、今日まで、クライアントの信頼を失わず、新規案件を獲得し続けて、どうにか売り上げを伸ばして、東京に戻る選択肢を再び検討するところまで、なんとか生き残ってくることができたのか、その流れを、改めて、よく考えてみてほしいと思います。よく考えたうえで、試してみたいのならば、どうぞ一度、試してみてください。絶対にそんな簡単にはいきませんから。命がけで食いつないできた仕事なんですよ。

 僕はたまたま、偏執狂的に仕事をするのが好きであることに加えて、いつまでも文章を書き続ける体力や、孤独に耐えうる精神力を、東京で搾取されていた頃の劣悪な環境で、いじめ抜かれながら後天的に手に入れ、実務から経営の方法までを幅広く体得し、その後、人との出会いや巡り合わせに、やっと奇蹟的に恵まれたことで、蜘蛛の糸を掴んで、ほんとうに運良く、どん底の地獄のようなマイナスから、一般人の暮らしができる、人並みのゼロ地点まで浮上できただけなんです。だから、僕のやってきたことに再現性なんてこれっぽっちもないし、成功例でもなんでもないし、しかも、全く簡単なことじゃない、割に合わない生き方なんです。それこそ、紙一重で死んでいたかもしれない。今の僕が在るのは、それくらい刹那的な偶然の積み重ねです。

 そして僕は、ただマニュアルに書けば再現できるような、誰にでもコントロールできることだけをやってきたわけじゃありません。有料noteにでもすれば読んだ人全員が幸せフリーランスになれる、みたいなお花畑のような情報商材的人生を歩んできたわけでもありません。運命や、宿命や、カルマや、そういうコントロールできない恐るべき因果応報の流れや、人の生死も含めて、すべてを受け入れ、なんとか、それでも、人生がうまく軌道に乗るように、死なずに生き残っていけるように、それこそ祈るように、震えながら、毎日を真摯に生きて、あらゆるものを犠牲にして、やっと掴んだ今の生活なんです。それなのに、僕のことをアテにして、簡単なことではないと事実を伝えた瞬間、まるでシャットアウトするようにコミュニケーションを閉じる空気を感じたとしたら、僕がいったいどんな気分になるか、わかりますか。きっと、わからないだろうな。

 そして、僕はこのような一見気狂いな文章を、自分の利益のために書いているのではないのです。もう、これ以上、フリーランスという生き方に対して、楽な生き方だとか、自由な生き方だとか、そういう勘違いをして選択する人が現れないことを祈る警鐘なんです。フリーランスは誰にでもできる、みたいな考え方は、まったくもって、馬鹿げている。自分の人生にとって、フリーランスにならざるを得ないという圧倒的な必然性があると思えたならば、それでも良いでしょう。しかし、必然性も何もなく、ただ楽をしたい、人の言うことが聞きたくない、会社では働きたくない、土日関係なく自由に遊んでいたい、そんな脆い精神性で、このようなタフな仕事の形態を選んだら、あっという間に野蛮な社会の荒波に飲まれて、木っ端微塵になってしまうことは目に見えています。誰も助けてなんかくれないし、すぐに乞食になりますよ。

 だからどうか、自分にできる最大限のパフォーマンスが出せる職場や環境や仕事を見つけて、毎日真面目に働いてください。実務のスキルを磨き上げ、経営とは何かを自分なりに勉強し、経理や総務のたいへんさを知ってください。すべてのものごとを、誰かを頼るのではなく、自分の力だけで探求し、根底から突き動かしてやろうとするような、極めて野蛮な、血なまぐさい野生のしなやかな感性を身につけてください。でないと、あらゆる場所で搾取の罠がはびこるこんな社会では、ひとりのフリーランスとして生き残っていくのはほとんど不可能です。自分の頭で考えて、身体を鍛えて、本気でやれ。そしてもう、僕のような者のことは、どうかそっとしておいていただきたい。僕はこれからもひとり、血だるまになりながら、孤独に、命がけで、己の目標に向けて書き続けて、なんとか今を生きていくだけですから。

 私が、こんな如是我聞(にょぜがもん)などという拙文をしたためるのは、気が狂っているからでもなく、思いあがっているからでもなく、人におだてられたからでもなく、況んや人気とりなどではないのである。本気なのである。昔、誰それも、あんなことをしたね、つまり、あんなものさ、などと軽くかたづけないでくれ。昔あったから、いまもそれと同じような運命をたどるものがあるというような、いい気な独断はよしてくれ。
 いのちがけで事を行うのは罪なりや。そうして、手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。おまえたちは、私たちの苦悩について、少しでも考えてみてくれたことがあるだろうか。
(中略)
 私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。
(中略)
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。
—太宰治「如是我聞」より引用—


 閑話休題。


 盛大な愚痴のアンサンブル、お目汚し大変失礼いたしました。このご時世に至っても未だ、こんなふうに苦悩を抱え、不器用な文章しか書けない、哀しきフリーランスとして生きる男のことを、どうか笑ってやってください。


 今日もなんとか、こうして無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

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