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Twitterホロコースト否定論への反論(23):ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙

目次
1.アウシュビッツのプレートの修正
2.切り離されたクレマⅠの煙突?
3.窓付きガス室のドアがペラペラ?
4.ロイヒターレポート
5.イギリス政府による嘘の疑惑
6.最初のホロコーストの流言
7.アウシュビッツのプール、病院など
8.Arbeit macht frei.
9.ワールド・アルマナックのデマ
10.赤十字統計のデマ
11.赤十字が死の収容所を視察?
12.チャーチル、アイゼンハワー、ドゴールの回想録には書かれていないガス室?
13.エリー・ヴィーゼルはガス室について言及しなかったのか?
14.エリー・ヴィーゼルは偽者?
15.より多くのヴィーゼルもの
16.アウシュビッツの暗号解読
17.生存者はガス室を見たり聞いたりしなかったのか?
18.アンネ・フランクの日記
19.ラッシニエはアウシュビッツのガス室を否定した。それともティース・クリストファーセンか?
20.ラーソンのデマ
21.偽物、信用できない、間違った目撃者
22.ガス室の壁に引っ掻き傷?
23.ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙
24.生存者のリーバーマンとアウシュビッツのオーブン
25.ラシャウト文書
26.ホロコーストの偽写真?
27.科学がホロコーストを論破?
28.ブリタニカでガス室についての言及はないのか?
29.リストジェフスキー先生?サイモン・ウィーゼンタールのノルマ?
30.アウシュビッツでは小さな子供や人は仕事に不向き?
31.ユダヤ人はホロコーストについて嘘をつくのか?
32.確定した死亡者数?
33.ヒルバーグと有名な証人は、ツィンデル裁判で嘘つき、詐欺師であることを示したのか?
34.シンドラーのリストはフィクションの話?
35.ブルーノ・バウムはアウシュビッツで偽のプロパガンダが作られたことを認めたのか?
36.変わり続ける収容所の死の犠牲者数?
37.ソ連だけが見つけた死の収容所?
38.リックのホロコースト否定
39. 6桁の刺青でも被害者は600万人?

▼翻訳開始▼

23.ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙

否定派の主張:

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ツイート:ダッハウの「ガス室」。「シャワールームに偽装され、ガス室としては使われなかった」
画像内(赤色部分のみ):ダッハウのガス室と火葬場では、ナチスの8年間の活動期間中に、おそらく100万人以上の人々が絶滅させられたと言われている。そのほとんどが、牢屋の中を見ることなく、絶滅させるために連れてこられた人たちである。

簡単な反論:ダッハウは絶滅収容所ではなかったので、そこでガス処刑が行われたかどうかは、ホロコーストの歴史性とは無関係である。

更なるコメント:ダッハウでの殺人的ガス処刑は、合理的な疑いを超えて立証されていない。米兵が立っているガス室の扉は、確かに害虫駆除用のガス室であった。解放後の初期の報道は、実にナンセンスなものであった―そうしたことはよくあるのでは? しかし、歴史はそのような報告に基づいて書かれるものではない。

ダッハウには、私たちが知る限り、殺人ガス室が確かに建設されていた(害虫駆除用のものと混同しないでほしい)。1942年8月9日、ジークムント・ラッシャーがヒムラーに宛てた手紙の中で、次のように書いている(B. ディステル、「ダッハウ強制収容所「バラックX」のガス室と「ダッハウの嘘」」 、G. モルシュ、B・ペルツ(編集)、『国家社会主義者の毒ガスによる大量殺戮に関する新しい研究。歴史的意義、技術的発展、修正主義的否定』、2012年(第2版)、p.339)。

ご存知のように、KLダッハウにもリンツと同じ施設が建設されています。「障害者輸送」はいずれにせよある部屋に送られるのですから、この部屋で、いずれにせよその部屋に送られることになる人たちに対して、さまざまな戦争ガスの影響をテストすることはできないのでしょうか。今までは動物実験や製造時の事故の報告しかなかったのですが、これからは、このようなガスの製造が可能になります。この段落のため、「秘密事項」として手紙を送ります。

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ラッシャーの手紙の全文

ガス室が本当に使われたのかどうかは、入手可能な証拠では何とも言えない。その使用については、噂もあり、確証のない証言もあった。しかし、小規模な使用は排除できない。この部屋は使われていないという古い博物館の看板は、ずいぶん前に取り外された。

戦後、一般の人々の中には、ダッハウで大量にガス処刑されたと誤解している人もいる。その結果、ドイツの歴史家マルティン・ブローシャートは、「ダッハウでのガス処刑はない」と題した手紙を書いた。否定派は、ブローシャートがその中で旧帝国領内(あるいはポーランド国外)でのガス処刑を否定していると主張したいのだ。ブローシャートは、ユダヤ人の大量ガス処刑は旧帝国以外(ほとんどがポーランド)で行われ、ダッハウ、ベルゲン・ベルゼン、ブーヘンヴァルトではガス処刑は行われなかったと指摘しているのである。このことは、旧帝国の収容所やその他の施設で、主に非ユダヤ人(一部ユダヤ人を含む)に対する小規模なガス処刑が行われたという事実と矛盾するものではない。

現代の専門家の間では、ブランデンブルク、グラーフェネック、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの安楽死施設、および旧帝国領内のザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュック、ノイエンガンメでのガス処刑が広く認められている(モルシュ、ペルツ、前掲書参照)。

否定派はブローシャートの主張を誤用している(ちょうどサイモン・ヴィーゼンタールの同様の主張日本語訳)と同じように)。

(ここで、旧帝国の外にも、マウトハウゼン、ハルトハイム(オーストリア)、ナッツヴァイラー(フランス)など、東側以外のガス処刑施設が存在したことも述べておく(モルシュ、ペルツ、前掲書参照))

ブーヘンヴァルトとベルゲン・ベルゼンでガス処刑が行われなかったことについてはブローシャートは正しかったが、ダッハウでガス処刑が行われなかったという彼の主張には根拠がない。現代の研究者は、そこでの試験的なガス処刑(あるいはガス処刑)の可能性を排除していない(ディステル、前掲書、S. 341参照)。

しかし、結局、ダッハウはトレブリンカやアウシュビッツのような絶滅収容所ではなかったので、この問題はせいぜい二の次である。

▲翻訳終了▲

ダッハウのガス室については、以前に別の記事を翻訳紹介しています。ここでも多少触れていますが、ダッハウのガス室に感しては確かに記事とは反対の意味での誤った情報が戦後流れていました。以下の翻訳記事では、それは米軍が解放した時の印象によるものであろうと書きましたが、ダッハウはドイツが最初に作った強制収容所なので、ナチスのガス室大量虐殺のイメージで見られたのであろうと考えます。

さて、記事中にある、ドイツの歴史家、マーティン・ブローシャートの手紙の内容はどんなものだったのか、ここで訳してみましょう。この手紙の内容は、ネットではしばしば否定派によって誤って紹介されることの多いものの一つです。

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ダッハウではガス処刑なし

ZEIT No.34/1960より
1960年8月19日 午前8時

R.シュトローベル:「彼とともに去れ」、ZEIT第33号

R・シュトローベルの寄稿に対して、残念ながら必要な批判的コメントをさせてほしい。シュトローベルのアンレイン元将軍に対する発言は確かに正しい。しかし、ミュンヘンのノイホイスラー補佐司教の証言によると、囚人たちが関連施設の建設を妨害したために、ダッハウではガス処刑は行なわれなかったというのだから、ダッハウは適切な例ではない。それゆえ、『キリストと世界』の著者は、「ダッハウのガス室を訪れたとき、そこで行われたガス処刑の伝説的な主張に屈した」と認めざるを得なかった。

それゆえ、シュトローベル氏の見落としは、アンレイン氏のように、現代史に関するわれわれの研究結果は連合国のプロパガンダにすぎないと主張する人々を勇気づけることになる。この研究結果と、大衆ジャーナリズムにおける現代史の描写との間には、いまだに大きな隔たりがあるため、これは残念なことである。

Wilhelm van Kampen, Kiel-Mönkeberg

ダッハウでもベルゲン・ベルゼンでもブッヘンヴァルトでも、ユダヤ人や他の囚人がガス処刑されたことはなかった。ダッハウのガス室は完全には完成せず、「稼動」しなかった。ダッハウや旧帝国の他の強制収容所で死んだ何十万という囚人は、何よりも、破滅的な衛生状態と供給条件の犠牲者であった:SSの公式統計によれば、1942年7月から1943年6月までの12ヵ月間だけで、帝国のすべての強制収容所で110,812人が病気と飢えで死亡した。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941/1942年に開始され、主に占領下のポーランド領内(旧帝国領内のどこにもなかった)で、適切な技術設備を備えた少数の選ばれた場所でのみ行われた:アウシュビッツ・ビルケナウ、ブグ地区のソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウジェツで。

ベルゲン・ベルゼン、ダッハウ、ブッヘンヴァルトにはなかったが、あなたの記事にあるような、シャワー室や消毒室に見せかけた大量絶滅施設が建設された。この必要な区別は、強制収容所設置の犯罪性を少しも変えるものではない。しかし、一部の知識のない人々が、個々の正しい主張を極論的に利用し、また、全体的な判断は正しいが、誤った情報に基づいている人々が、それに反論しようと躍起になるときに生じる致命的な混乱を、おそらくなくすのに役立つだろう。

M.ブローシャート博士(ミュンヘン現代史研究所)

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否定派はこの手紙の内容を悪用して、以下のような主張を行うことがあります。

  • 正史派の歴史家である、マルティン・ブローシャートはガス室はなかったと1960年に既に言っている!
    →ウソ:実際には上の通り、ブルーシャートが否定したのはダッハウ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼンだけであり、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所のガス処刑は全く否定していない。また、ダッハウに限定されることもあるが、ブローシャートは「ガス室は完全に完成していなかったので稼働しなかった」と述べただけであり、ガス室がなかったと言っているわけではない。ただし、ブローシャートが何を根拠に「ダッハウではガス処刑はなかった」「ダッハウのガス室は完成していなかった」と判断しているのはか不明である。

  • 正史派の歴史家である、マルティン・ブローシャートはガス室はなかったと1960年に突然発表した!
    →ウソ:ガス室がなかったと述べたのではないことが前述の通り。また、突然ではなく、ドイツの新聞であるディー・ツァィト紙に寄稿したR.ストローベル氏への反論として意見投稿したのである。

ブローシャート博士は、有名なルドルフ・ヘスの回顧録を戦後にドイツ語出版させた人です。それが現在、日本で売っている『アウシュビッツ収容所』(講談社学術文庫)の原著だったりします。現在のダッハウのガス室に関する説は、ダッハウ博物館の説明によると以下のようです。

Zur massenhaften Tötung von Menschen durch Giftgas kam es im KZ Dachau nicht. Es ist ungeklärt, weshalb die SS die funktionsfähige Gaskammer nicht auf diese Weise einsetzte. Im Jahr 1944 wurden laut einem Zeitzeugenbericht einige Häftlinge durch Giftgas getötet.
(日本語訳)
毒ガスによる大量殺戮は、ダッハウ強制収容所では起こらなかった。なぜSSがこのように機能するガス室を使わなかったのかは不明である。1944年、目撃者の証言によると、一部の囚人は毒ガスで殺されたそうだ。

ところで、そのルドルフ・ヘス回顧録(自伝)の出版について、妙なことを言う人がたまにいるので、ついでにここで書いておきましょう。妙なことというのは、その自伝が、ヘスが死刑になってから11年も経って出版されたのは奇妙である、というものです。言外に含まれたニュアンスは当然、ヘスの自伝は(十一年という十分な熟慮を経て)捏造されたものである、ということなのでしょう。もちろん、そんな証明は何もなされていません。

ですが、11年経ってから初めて日の目を見た、というのはウソです。『アウシュヴィッツ収容所』のブロシャートによる序文から引用してみましょう。

この資料の異常さは、すでに数年前、ポーランド語でヘス文書が最初に公表された際、ワルシャワの中央委員会を動揺させた。この文書は、一九五一年にワルシャワのポーランド法務出版局から刊行された「ヒトラーによる犯罪捜査のための中央委員会」報告第七巻の中にある。これには、自伝の他に、個別の比較的短い文書の一部も含まれている。この最初のポーランド語版への序文を書いたのは、すでに名前を挙げたポーランドの犯罪学者スタニスラウ・バタヴィア教授だった。彼の報告によれば、彼はクラカウで計十三時間にもわたって、ヘスと面談したとのことである。さらに一九五六年、『アウシュヴィッツの指揮官、ルドルフ・ヘスの回想』というタイトルで、ヘス文書の、二番目のポーランド語による完全版が、ワルシャワ法律出版から刊行された。(p.25)

ヘスの死刑執行は1947年4月16日です。もしそんな嘘をいう人を見つけたら、これを思い出してください。以上。

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