Twitterのホロコースト否定論への反論(11):赤十字が死の収容所を視察?
目次
1.アウシュビッツのプレートの修正
2.切り離されたクレマⅠの煙突?
3.窓付きガス室のドアがペラペラ?
4.ロイヒターレポート
5.イギリス政府による嘘の疑惑
6.最初のホロコーストの流言
7.アウシュビッツのプール、病院など
8.Arbeit macht frei.
9.ワールド・アルマナックのデマ
10.赤十字統計のデマ
11.赤十字が死の収容所を視察?
12.チャーチル、アイゼンハワー、ドゴールの回想録には書かれていないガス室?
13.エリー・ヴィーゼルはガス室について言及しなかったのか?
14.エリー・ヴィーゼルは偽者?
15.より多くのヴィーゼルもの
16.アウシュビッツの暗号解読
17.生存者はガス室を見たり聞いたりしなかったのか?
18.アンネ・フランクの日記
19.ラッシニエはアウシュビッツのガス室を否定した。それともティース・クリストファーセンか?
20.ラーソンのデマ
21.偽物、信用できない、間違った目撃者
22.ガス室の壁に引っ掻き傷?
23.ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙
24.生存者のリーバーマンとアウシュビッツのオーブン
25.ラシャウト文書
26.ホロコーストの偽写真?
27.科学がホロコーストを論破?
28.ブリタニカでガス室についての言及はないのか?
29.リストジェフスキー先生?サイモン・ウィーゼンタールのノルマ?
30.アウシュビッツでは小さな子供や人は仕事に不向き?
31.ユダヤ人はホロコーストについて嘘をつくのか?
32.確定した死亡者数?
33.ヒルバーグと有名な証人は、ツィンデル裁判で嘘つき、詐欺師であることを示したのか?
34.シンドラーのリストはフィクションの話?
35.ブルーノ・バウムはアウシュビッツで偽のプロパガンダが作られたことを認めたのか?
36.変わり続ける収容所の死の犠牲者数?
37.ソ連だけが見つけた死の収容所?
38.リックのホロコースト否定
39. 6桁の刺青でも被害者は600万人?
▼翻訳開始▼
否定派の主張:
ツイート:国際赤十字が戦時中の収容所を視察。ガス室や大量殺戮はなかったと報告されている。伝染病で多くの人が亡くなった。
メインの画像中のテキストの翻訳:
戦争末期に、赤十字が、解放された何千人もの収容者に、殺人的な「ガス処刑」を目撃したかどうかを尋ねたところ、答えは一様に「いいえ」であった。
1946年6月のIRC文書#9925によると、次のようになる。
「被収容者自身は、それらについて何も語っていない」。
簡単な反論:赤十字は絶滅収容所を視察していない。アウシュヴィッツを検査することは許されなかった。「赤十字の統計」ミームはすでにこちらで論破されている。(註:翻訳記事はこちら)
更なるコメント: 赤十字は明らかに、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボル、クルムホフ(ヘウムノ)といった純粋な絶滅収容所(強制収容所ですらなかった)を訪れたことがない。
ICRCの公式報告書には、すべての収容所を訪問することは許されなかったと明確に記されている。
実際、1943年7月21日の書簡からわかるように、ICRCは戦時中にすでにアクセスがないことを訴えていた(USHMM, 回想の日々, 4月18-25日, 1993年..., p. 267)。
赤十字のモーリス・ロッセルがアウシュビッツ(実際の絶滅収容所があったアウシュビッツⅡビルケナウではなくアウシュビッツⅠ)を訪問しようとした時、彼が許された(日本語訳)のは30分ほど司令官と話をすることだけだった。これは、このミームが「文書番号9925」と呼ぶ、まさにICRCの報告書に詳細に記述されており、もちろんこのツイートでは完全に歪曲されている。
報告書の日付は1944年9月29日で、「1946年6月」ではない。この報告書には、戦後、抑留者を尋問した結果は一切含まれていない(当然だ)。むしろ、前述したアウシュビッツ訪問の失敗談が収録されている。収容所の視察が許されず、司令官としか話ができなかったことを説明した後(ロッセルの回想によると、彼はこう言ったという。「いや、これは被抑留者だ、お前には見る権利はない。しかし、医務室に助けを送ったり、薬を送ったりしたければ、そうすればいい」)、ICRC代表は、テシェン(アウシュビッツから50キロ以上離れたチエジーン)の英国人捕虜と交わした話を紹介した。
ミームの引用はそこからきている。ロッセルは、アウシュビッツから遠く離れたところにいるイギリス人捕虜に話を聞き、彼が事実を立証するための実りの少ない試みについて話したのだ。もう一つの不発弾。もう一つの否定派の嘘。
このイギリス人捕虜の側で、彼の「アウシュビッツ・コマンド」、すなわちアウシュビッツ副収容所の一つの鉱山で働くイギリス人捕虜のグループを通じて、収容者に話をしようと間接的に試みたと仮定すれば、収容者が部外者にこのことを話したがらなかったことは容易に説明できるだろう。たとえば、モノヴィッツのコマンド178で働いたフィセル・シュピロ(アウシュヴィッツ収容者番号157291)は、仕事に現れない労働者が「ムスリム」(死期が近い疲れ切った人々の収容所スラング)になり、火葬場に行ったと文民監督官に話したために10回も鞭打たれた(NI-11019参照;あるいは、 I.ストゼレツカ, アウシュビッツ1940-1945の「罰と拷問」、p.282、『収容所の歴史に残る節操のない問題』, vol. II, 1995;GARF f. 7021, op. 108, d. 33, l. 103)。ポール・スタインバーグは、勤務時間中にイギリス兵捕虜と話し(ただし、特に職場を離れることなく)、彼らから食物や喫煙具を受け取ったとして10回鞭打たれた(アーロルゼン・アーカイブ, reference 8002300, pp.136a-b)。絶滅のプロセスを詳細に議論した場合の罰は想像がつく。
後のICRCの書簡にある「我々の代表の一人がこの収容所に入ることができた」という表現は、9月の報告書に基づき、ロッセルが本収容所の一部である司令官の部屋に入ったことを指している。しかし、報告書にあるように、ロッセルは主要な収容所さえも、ましてやビルケナウの実際の絶滅の現場も実際に視察することができなかったのである。
疑問:なぜ? 何を隠す必要があったのだろう?
ナチスに赤十字のアウシュビッツ視察を認めさせる試みは、止むことがなかった。1944年11月23日、グスタフ・ステングラハトは、外務省の「ユダヤ人問題」担当官エーバハルト・フォン・タッデンに別の要請書を送った。スイス大使は、赤十字の代表がワルシャワから避難してきたポーランド人のキャンプを訪問したことが、世界の沈静化にかなり貢献したと語ったという。ステングラハトはさらに大使についてこう報告している。
これがフォン・タッデンの公式回答であった(1944.11.28, PAAA, 同上; Die Verfolgung..., op. cit. も参照のこと)。
ステングラハトは、上記のような事情から、この問題は一時的に保留にできると回答し、要請は棚上げされた。
これ以上のコメントは必要?
続きを読む:
ハンス・メッツナー、「赤十字国際委員会のアウシュヴィッツ訪問に関するコラーシュトロムの欺瞞」
ハンス・メッツナー「コラーストームとホロコーストに関する赤十字国際委員会の1948年報告書」
セバスチャン・ファレ「ICRCとナチス強制収容所の抑留者(1942-1945年)」
註:以上三つの参考記事は、以下にまとめて翻訳しています。
▲翻訳終了▲
以前にも書いたような気がしますが、絶滅収容所を赤十字が視察して、ガス室やその様子を記録に残す、ようなことをナチス親衛隊が認めるなどということがあり得ると思いますか? そして実際に拒否されているという証拠まであるわけです。この拒否されているという文書証拠自体が、ガス室大量虐殺の事実を裏付けてしまっています。
あちこちから、こうして証拠資料が出てくるのに、なぜ否認論者はこんな馬鹿なことを言うのか、理解に苦しみます。そうして否定論者は平然と言うのです、「赤十字の資料に視察を拒まれたと書かれていたところで、それはガス室があったことの証拠にならない」と。いや、否定派がしょっちゅう言うように収容所内でチフス大量発生してたんちゃうのですか? だったら赤十字に視察してもらった方がいいに決まってたんちゃうの? と言いたくなります。
否定派の脳内は謎です。理解はしますが理解は出来ません。
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