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Twitterのホロコースト否定論への反論(1):アウシュビッツの記念碑の修正

この翻訳シリーズはHolocaust Controversiesブログサイトの人気記事である」のRebutting the "Twitter denial": the most popular denier memes debunkedの翻訳紹介です。

Twitterでは2020年ごろからホロコースト否定の投稿を厳しく削除するようになったのですが、それ以前にはかなり多くのホロコースト否定論の投稿があったようです。ここで紹介されているのは、そのうちである意味非常にわかりやすくまとめられた否定論シリーズのツイート集に対する反論です。

Holocaust Controversiesでは1記事にまとめられていますが、こちらでは項目ごとに記事を分割して翻訳紹介します。

目次
1.アウシュビッツのプレートの修正
2.切り離されたクレマⅠの煙突?
3.窓付きガス室のドアがペラペラ?
4.ロイヒターレポート
5.イギリス政府による嘘の疑惑
6.最初のホロコーストの流言
7.アウシュビッツのプール、病院など
8.Arbeit macht frei.
9.ワールド・アルマナックのデマ
10.赤十字統計のデマ
11.赤十字が死の収容所を視察?
12.チャーチル、アイゼンハワー、ドゴールの回想録には書かれていないガス室?
13.エリー・ヴィーゼルはガス室について言及しなかったのか?
14.エリー・ヴィーゼルは偽者?
15.より多くのヴィーゼルもの
16.アウシュビッツの暗号解読
17.生存者はガス室を見たり聞いたりしなかったのか?
18.アンネ・フランクの日記
19.ラッシニエはアウシュビッツのガス室を否定した。それともティース・クリストファーセンか?
20.ラーソンのデマ
21.偽物、信用できない、間違った目撃者
22.ガス室の壁に引っ掻き傷?
23.ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙
24.生存者のリーバーマンとアウシュビッツのオーブン
25.ラシャウト文書
26.ホロコーストの偽写真?
27.科学がホロコーストを論破?
28.ブリタニカでガス室についての言及はないのか?
29.リストジェフスキー先生?サイモン・ウィーゼンタールのノルマ?
30.アウシュビッツでは小さな子供や人は仕事に不向き?
31.ユダヤ人はホロコーストについて嘘をつくのか?
32.確定した死亡者数?
33.ヒルバーグと有名な証人は、ツィンデル裁判で嘘つき、詐欺師であることを示したのか?
34.シンドラーのリストはフィクションの話?
35.ブルーノ・バウムはアウシュビッツで偽のプロパガンダが作られたことを認めたのか?
36.変わり続ける収容所の死の犠牲者数?
37.ソ連だけが見つけた死の収容所?
38.リックのホロコースト否定
39. 6桁の刺青でも被害者は600万人?

▼翻訳開始▼

1.アウシュビッツのプレートの修正

否定派の主張:

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ツイート:アウシュビッツの記念碑
1948年:400万人が死亡
1989年:110万人が死亡
6,000,000 - 3,000,000 = ??
*回答:600万人としなかったら→反ユダヤ主義者

画像2

ツイート:「ホロコースト」。50年間 これが「真実」だった。1990年まではこう言われていた。50年間の嘘。

画像内のテキスト(左側のみ):
上(〜1989年まで):
「400万人
1940年から1945年の間に、ナチスの殺人者たちの手によって、ここで苦しみ、死んだ人々」
下(1989年〜):
「この場所を絶望の叫びと人類への警告としよう
ナチスが約150万人を殺害した場所、男女、そして子供」

簡単な反論:記念碑には400万人のユダヤ人とは書かれていない。したがって、数学的な矛盾は全くない。

更なるコメント: ソ連のアウシュヴィッツ報告にはこのことは書かれておらず、「ソ連、ポーランド、フランス、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の400万人を下らない市民」という斜め上の言及があったが、それだけだった。

また、歴史は記念碑によって書かれるものではない。博物館の記念碑は、権威ある学術研究でも何でもない。

生存者の中には、ソ連の誇張された数字を受け入れる人もいたが、西側の歴史家の多くは受け入れなかった。当初、ソ連の死者数は非常に誇張されていたが、それは、現地で利用可能であるとされる火葬の容量に基づいており、何かを計算するには非常に信頼性の低い方法であり、西側の多くの人がそう認識していた。アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスも当初は収容所での死者数を数百万人と主張していたが、最終的には、約110万人のユダヤ人強制退去者の推定値に落ち着き、これは約100万人あまりのユダヤ人犠牲者、すなわち今日我々が知る大体の数字と一致している。注目すべきは、ヘスがこの推定値を提示したことで、ソ連の公式数字である400万人を推し進めようとするポーランド人捕虜の利益に反したことである。

ソ連のアウシュヴィッツの誇張された見積もりは、「400万人のユダヤ人」を示すものではなく、また、このような見積もりは、収容所の死者数の合計ではなく、個々の国・地域の死者数の合計によってなされるため、ユダヤ人の死者数が500万人から600万人となる見積もりに含まれることはなかったのである。

アウシュビッツの誇張された死者数が50年間「真実」とされてきたというのは嘘である。共産主義国ポーランドではそう考えられていたが、そこでも、文献は通常「250-400万人」の範囲を引用していた。たとえば、ヒルバーグの推定は100万人であった。彼は権威あるホロコースト史家でありながら、これを「真実」として受け入れなかったのである。

さらなる読み物:アウシュビッツ・ギャンビット:400万人の変奏曲

▲翻訳終了▲

上記記事内に出てくるソ連の報告書のリンクから、犠牲者数の箇所を以下に引用してみます。

Over 4,000,000 murdered
Prior to their retreat, the Germans carefully attempted to wipe away trace of their horrible crime in Auschwitz by destroying all the documents through which the whole world might learn the exact number of human beings killed in Auschwitz. But the gigantic installations erected for the extermination of human lives by them in the camp, the testimonies of Auschwitz inmates liberated by the Red Army, the testimonies of 200 witnesses, found documents, and other important evidence, suffice to convict the German butchers of the extermination, gassing, and cremation of millions of men in Auschwitz camp. In the five crematoria alone, with their 52 retorts, the Germans were able to exterminate the following numbers of prisoners since their installation:

In crematorium no. 1, which existed for 24 months, 9,000 bodies could be burnt monthly, which means a total of 216,000 during the entire period of its existence;

The corresponding figures are:

- crematorium no .2: 19 months, 90,000 bodies per month, total figure 1,710,000 bodies;

- crematorium no. 3, 18 months, 90,000 bodies per month, total figure 1,620,000 bodies;

- crematorium no. 4: 17 months, 45,000 bodies per months, total figure 765,000 bodies;

- crematorium no. 5: 18 months, 45,000 bodies per month .

The total capacity of all five crematoria was 279,000 bodies per month, for a total figure of 5,121,000 for the entire period of its existence.

Since the Germans also burnt a great number of bodies on pyres, the capacity of the installations for the extermination of human beings in Auschwitz must be considered to be much higher in fact than this figure would suggest. But even when one considers that individual crematoria may not have worked to full capacity, or they might have been shut down for repairs part of the time, the technical commission established that the German hangmen killed not less than 4,000,000 citizens of the USSR, Poland, France, Yugoslavia, Czechoslovakia, Rumania, Hungary, Bulgaria, Holland, Belgium, and other countries during the period of the existence of Auschwitz camp.

<日本語訳>

400万人以上が殺害された。
ドイツ軍は退却に先立ち、アウシュヴィッツで殺された人間の正確な数を全世界が知ることができるように、すべての文書を破棄して、アウシュヴィッツでの恐るべき犯罪の痕跡を払拭しようと慎重に試みた。しかし、収容所内に人命を抹殺するために建てられた巨大な施設、赤軍によって解放されたアウシュヴィッツの収容者の証言、200人の目撃者の証言、発見された文書、その他の重要な証拠は、ドイツの肉屋がアウシュヴィッツの収容所で何百万人もの人命を抹殺し、ガスをかけ、火葬したことを有罪にするのに十分であった。5つの火葬場だけでも、ドイツ人は52のレトルトで、設置以来、以下の数の囚人を絶滅させることができた。

24ヶ月間存在した第1火葬場では、毎月9,000体の遺体を燃やすことができたので、全期間で216,000体の遺体を燃やすことができた。

これに対応する数字は以下の通りである。

- 第2火葬場:19ヶ月、90,000体/月、合計1,710,000体。
- 第3火葬場:18ヶ月、90,000体/月、合計1,620,000体
- 第4火葬場:17ヶ月、45,000体/月、 合計 765,000体
- 第5火葬場:18ヶ月、45,000体 /月

5つの火葬場の合計収容人数は、月に279,000体、全期間で5,121,000体となっている。

ドイツ軍はまた、多くの遺体を焼却したので、アウシュヴィッツの人間を絶滅させるための施設の能力は、この数字が示唆するよりも、実際にははるかに高いと考えなければならない。しかし、個々の火葬場がフル稼働していなかったかもしれないことや、修理のために一部停止していたかもしれないことを考慮しても、技術委員会は、アウシュヴィッツ収容所が存在していた期間に、ドイツの死刑執行人が、ソ連、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の市民を400万人以上殺害したことを立証している。

<以上>

ソ連の見積によると、例えば第二火葬場では、一体あたりの算術的火葬時間(アウシュヴィッツでは一体ごとに火葬などせず、複数の遺体を同時にまとめて火葬していたので、計算上の一体当たりの火葬時間は短くなるが)は7分半になり、これはアウシュヴィッツの親衛隊建設部がベルリンに送っていた書簡のになります。

画像3
アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬能力を記したヤニシュ書簡(1943.6)

ソ連の委員会がどうやってアウシュヴィッツの火葬炉の火葬能力を推計したのかは謎であり、推測としてはゾンダーコマンドの囚人に聞いた可能性はありますが、推測にとどまります。しかしながら、収容所に移送されてきた移送者数の推計すらもなく、稼働期間推定の根拠も記されておらず、これではソ連の言うことを「信じるしかない」報告書に過ぎないと言わざるを得ません。

しかし、翻訳者の私としては、このような「400万人」は実にいい加減な数値であったと、否定派の論調に少しは従うところです。ただし、そもそもが400万人説は信用するに値しなかった、だけであり、記事の中にもある通り、110万人(最大150万人)にアウシュヴィッツの記念碑が変更されるまでずっと定説であった、には同調しません。400万人は広く流布はしていましたが、ヒルバーグの100万人を代表として、いろいろな数字が歴史家などから出されていた事実があるからです。以下、翻訳記事中のリンクから示します。

●「アウシュビッツ」世界図書エンサイクロペディア. シカゴ: World Book, 1980.
2,500,000人

イフエダ・バウアー。『ホロコーストの歴史』New York: F. Watts. 1982. p. 215.
1,500,000〜3,500,000人

●______. "歪曲の危険性、ポーランド人もユダヤ人もホロコーストを否定する人たちに最高の論拠を提供している," エルサレム・ポスト, 30 Sep 1989.
1,600,000人

●______. 「序文」フィリップ・ミュラー編『アウシュヴィッツの目撃者』New York: Stein and Day, 1979, p. xi.
(正確な数値は不明, しかし、推定350万)

ジョセフ・ビリグ『ヒトラー帝国の経済における強制収容所』Paris: Presses universitaires de France, 1973. pp. 101-102.
2,000,000万人

ルーシー・ダドウィッツ『ユダヤ人との戦争』New York: Bantam Books, 1979, p. 191.
1,100,000万人

●エンサイクロペディア・ユダカ・エルサレム: Keter Publishing House, 1974. p. 855.
1,000,000〜2,500,000人

フィリップ・フリードマン『This Was Oswiecim: 殺人収容所の物語』 Translated from the Yiddish original by Joseph Leftwich. London: The United Jewish Relief Appeal, 1946, p. 14.
4,000,000〜5,000,000人

マーティン・ギルバート『ホロコーストの地図』New York: Pergamon Press, 1988.
(ポーランド人総死亡者数 300万人)

ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』Chicago: Quadrangle Books, 1961, p. 572.
1,000,000人

ルドルフ・ヘス『死のディーラー:アウシュビッツ親衛隊司令官の回想録』ed. by Steven J. Palusky, trans. by Andrew Pollinger. Buffalo: Prometheus Books, 1992, p. 391.
1,130,000人
註:ヘスはこのことを書いた回想録中で、その中で挙げた国別犠牲者数以外の細かな作戦については覚えていない(「取るに足らない」数とは言ってはいるが)としているので、「113万人」として紹介するのは誤解を招く。この113万人は、その国別犠牲者数個々の値として述べただけで、ヘス自身は合計値を述べていない。

●イホル・カメネツクシィ『東ヨーロッパのための秘密のナチス計画』 New Haven: College and University Press, 1961, p. 174.
約2,500,000人

アーサー・ブリス・レーン. 『裏切られたポーランドを見て:アメリカ大使がアメリカ国民に報告』Indianapolis: The Bobbs-Merrill Company, 1948, p. 39
3,000,000人

オイゲン・コゴン『親衛隊国家』Berlin, 1974, p. 157.
3,500,000〜4,500,000人

フランチシェク・ピペル『"アウシュヴィッツ死の収容所の解剖学における「犠牲者の数」について』Washington D.C and Bloomington: United States Holocaust Memorial Museum and Indiana University Press, 1994, pp. 68-72.
1,100,000人

●Polaikov, Leon. Harvest of Hate Syracuse: Syracuse University Press, 1956, p. 202.
2,300,000人

ジェラルド・ライトリンガー. 『最終的解決:ヨーロッパのユダヤ人絶滅の試み』1939-1945. South Brunswick: T. Yoseloff, 1968, p. 500.
800,000〜900,000人

ウォルフガング・ソフスキー. 『恐怖の秩序: 強制収容所』Trans. William Templer. Princeton: Princeton University Press, 1997, p. 43 in Galleys.
1,000,000人

●テレサ・スイボッカ『アウシュビッツ:写真で見るアウシュヴィッツの歴史』Bloomington and Warsaw: Indiana University Press and Ksiazka I Wiedza, 1993, pp. 287-288.
1,000,000〜1,500,000人

●Weiss, A. 『ユダヤ人問題の最終的な解決の実行における収容所、その性格と役割のカテゴリ、ナチスの強制収容所』Jerusalem: Yad Veshem, 1984, pp. 132.
1,200,000〜2,500,000人

ジョージズ・ウェラーズ『"アウシュビッツ収容所の死者数の測定の試み』Le Monde Juif, Oct-Dec 1983, pp. 127-159.
1,600,000人

ポーランド、旧東ドイツ、旧チェコスロバキアの研究
●ソ連委員会の調査結果からの引用では4,000,000人、ポーランド最高国民裁判所では2,800,000〜4,000,000人、あるいはアウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスの3,000,000人

●『アウシュヴィッツでの「アウシュビッツの犯罪者の処罰」: 死の収容所の歴史と現実』Reinbek bei Hamburg: Rowolt, 1980, p. 211.
2,500,000〜4,000,000人

ダヌータ・チェヒ『アウシュヴィッツ強制収容所:物語の概要: 強制収容所の歴史と実態』Reinbek bei Hamburg: Rowolt, 1980, p. 42.
2,500,000〜4,000,000人

クシシュトフ・ドゥニン・ワソヴィッチ『ナチスの強制収容所での抵抗(1933-1945年)』Warsaw: PWN-Polish Scientific Publishers, 1982, p. 44.
2,500,000〜4,000,000人

Madajczyk, Czeslaw『占領下のポーランドにおける第三帝国政策;ポーランドの占領、1939-1945年』Warsaw: Panstwowe Wydawn Naukowe, 1970, pp. 293-94.
2,800,000〜4,000,000人

●『ポーランドのナチス収容所 1939-1945』informator encyklopedyczny. Warsaw: Panst. Wydaw. Naukowe DSP, 1979, p. 369.
2,500,000〜4,000,000人

以上。

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