ヨルシカの『月光』を観て考えたこと

ヨルシカのLIVE映像『月光』を観て考察したことです。

冒頭のPoetry『海底にて』の「僕らは深い海の底にいる」は、心が自分の奥底に沈んでる、と取れます。
「遥か上には表現の波が泡立つ」=表に心を現す という。
鯨の僕らが水面の月光に手を伸ばす事は、宇宙に想い馳せる事、いさなの「陸に想い馳せる」に似ています。
外部の存在(他者)に手を伸ばす=表現 なのかなと。


エイミー(曲)の「人生全部が馬鹿みたい」は、
走馬灯しか見えない→馬しか→馬鹿
という事に思いました。
月光DVDのPoetryに「全ては僕の見る走馬灯」とあるので。

Poetryの「生まれ変わってでも僕は君に会いに行かないと駄目だ」の「駄目」は、走馬灯を負け犬の目が見ているって事かなと。
走馬灯を見る負け犬の目
→馬犬目
→駄目
と変換できるので。

負け犬にアンコールはいらない(曲)に「負け犬だからさ想い出しかないんだ」とあり、
想い出=走馬灯 と取ると、繋がりを感じます。
月光エンドロールの曲も負け犬(アルバム)の前世(曲)ですし。

月光=走馬灯 だと感じました。
夜しか見えない月光=夜(死)の中の灯=走馬灯
という。走馬灯も灯なので。

ヨルシカを夜鹿として、夜を走る鹿を想像すると、走馬灯に似ています。

走馬灯(回り灯籠)は、日本では夏の夜の娯楽として登場したらしい(Wikipediaより)ので、夏と夜が頻繫に出てくるヨルシカ作品に合っていると思います。

『二』と『人』を合わせると『天』です。
「天国に一番近い場所」は二人の国、エルマとエイミーの国と取れる気がします。

エルマへの手紙4/10の「あの国へ向かう旅券」は、スウェーデンへの旅券でもあり、天国へ行く為の花緑青でもあるのかなと。

エイミーの永眠が8/31だと思われるのは、
8→エイト 3→ミ 1→イ
8/31→エイミー→えいみん(永眠) を意識してる気がします。


エイミーは、音楽家としては日の目を見ませんでした。
エイミーとエルマのLIVEが『月光』なのは、日の目は見なかったけど月は見ていたって事かなと。

どんな作品も神様が価値を付けてくれる
=ヘンリーダーガーのような自分の為だけの創作、日の目を見ない作品にも光が宿る
=夜しか照らさない無謬の月
と思いました。
『だから僕は音楽を辞めた』の英題がMoonlightなのは、売れること(日の目)を気にしない作品には、代わりに月光が宿るって事かなと。

ヨルシカのロゴマークは、向かい合った月であり目の形でもあるので、月の目と思えます。
このロゴマークは、日の目を見なかったエイミーを照らす「夜しか照らさない無謬の光」でもあるのかなと。



月(つき)の語源には、太陽に次いで光り輝く事から、次(つぎ)の意味だとする説があります。
月光DVD「生まれ変わってでも僕は君に会いに行かないと」を思うと、
エイミーが生まれ変わる理由、次の世(来世)に行く理由がエルマの月明かりで、
月の光=次の光=来世への道標 なのかなと。

「生まれ変わり」を繰り返しだと思うと、音楽がフレーズを反復する事に似てる気がします。
繰り返す人生は音楽みたいだなと。エイミーは「人生が芸術を模倣する」と信じていましたし。
エイミーが生まれ変わろうとするのはエルマに会う為なので、
「君(エルマ)だけが僕の音楽」だから生まれ変わり、音楽のように人生を繰り返すのかなと。


憂一乗についてです。
月光ライブの憂一乗では、背後に三日月の映像が出ます。
三日月の形はUに似ていて、
海底から幽かに見えた月光をU(憂)としているように思いました。

ライブの最後、月光という文字の後ろに日食の映像が流れます。
太陽を月が食らい、暗い夜しか見えなくなってしまった
→エイミーが夜(死)の世界へ行ってしまった
と連想しました。

また、海底から見えた光は日光でしたが、エルマはそれを月光のようだと感じます。
日が月のようだと認識される
→日が月に食われる
→日食
ってことかなと。

日食は、ドーナツ状で0に似ているので
日食=0(ゼロ) と思えます。
藍二乗では君が引かれて0の下(マイナス1)だったので、
0は、君が引かれていない状態なのでしょう。
日食の光のなかで、エイミーと君(エルマ)は再会できたのかなと。

三日月のU(you)が2つ合わさって、UとUが合体して0になったとも思えます。



『水清ければ月宿る』という言葉があり、「心にけがれがなければ、神仏の恵みがある」という喩えらしいです。
エイミーがエルマの詩に月明かりを見た事、
パレードの「君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる」に繋がるなと。
エルマが水中で月光のような日光を見た事にも繋がります。

『嘘月』の「バケツ一杯の月光を呑んでる」も、水に月が宿っていたという事かなと。
「昔の僕は涙が宝石で出来てた」は、昔の僕は涙(水)が清らかで月が宿っていた(嘘つきじゃなかった)と取れます。

『水清ければ魚棲まず』とも言います。人格が清廉だとかえって人に親しまれないという意味です。
「売れることこそがどうでもよかった」エイミーは人気にならなかった(魚棲まず)けれど、月を宿してはいたのかなと。
だから僕は音楽を辞めたの英題はMoonlightですし。

逆に『嘘月』の盗作おじさんは、月を失い、清くなくなった(盗作した)ことで人気になったのかなと。

月光をく=月光をはじく=月光を反射する と取れて、
ヨルシカ作中で月光ソナタをく事は、月光を反射する事に繋がる気がします。
盗作おじさんは、月光ソナタをく妻に月光が反射している(はじかれている)のを見たのかなと思いました。

月光ソナタを、
月光そなた(=月光の君) と取ると、
「君の人生は月明かりだ 有りがちだなんて言わせるものか」
に繋がります。


密造酒は英語でムーンシャインと言います。
ヨルシカのエイミーが飲んだ花緑青は密造酒、ムーンシャイン(月光)に喩えてる気がしました。
密造は嘘と取れるので、
嘘月の「バケツ一杯の月光を呑んでる」も酔い(良い)月を呑んだのかなと。


海底撈月(四字熟語)は、海面に映っている月をすくい上げようとする、実現不可能なことに労力を費やして無駄に終わることのたとえらしいです。
『海底、月明かり』や嘘月「バケツ一杯の月光を呑んでる」を連想します。
エイミーやエルマや盗作おじさんが目指した創作は、実現不可能で無駄に終わったのかなと。
「エイミーは無駄という言葉が好きだった。」とエルマの日記にあります。
その無駄な行い(創作)を愛せるかどうかなのかもしれません。


蜃気楼の蜃は巨大なハマグリという説があります。
憂一乗の「蜃気楼よりも確かならそれでいいよ」は、ハマグリが作ったものより確かならそれでいい、オウム貝(ノーチラス)ならいいのかなと。



だから僕は音楽を辞めたの英題はMoonlightで、対の曲はノーチラスです。
月光の中をノーチラス号が泳ぐと思うと、月光浴を連想します。
体の半分以上は水なので、
エルマはエイミーの見た月光を浴びながらエルマ自身の中を泳ぐのかなと。

ヨルシカの由来「夜しかもう眠れずに」は、健康的で、生活リズムが整っています。
ロゴマークの時計は体内時計で、
ロゴマークは向かい合う月でもあるので、月光が身体中を巡るのかなと。
月日の月なら、時間という意味で時計に繋がりますし。

生活リズム=音楽 とすると「君だけが僕の音楽」に繋がります。
君と会うことが、朝起きる(夜しか眠らない)理由、
生活リズムを整える理由だったのかなと。


エルマ(アルバム)についてです。
車窓の次の曲(憂一乗)が「湖の底にいるみたいだ」で始まるのが、
ウミユリ海底譚の海中列車を連想しました。
ノーチラス号の窓から、外を見ている情景と思えます。
『海底、月明かり』という曲があるので、第一夜MVの列車や、銀河鉄道の夜を連想しました。
ノーチラスMVでもノーチラス号は宙に浮いていますし。

ノーチラス号が出てくる海底二万里の作者ヴェルヌは、月世界旅行を書いた人なので、
ヨルシカのノーチラスの対の曲、
『だから僕は音楽を辞めた』の英題がMoonlightなのはそれも意識してるのかなと。
『海底、月明かり』という曲名も、海底二万里と月世界旅行を繋げたように取れます。



歩く「今日、生きてるような そんな錯覚があった 妄想でもいいんだ」は、自分が亡くなった(生きてない)女でもいいのかなと。
「妄」は亡くなった女と書きます。
「君が居てくれたらいいや」と続くので、「妄」になる事で亡くなったエイミーと一緒に居れるのかなと。

君(エイミー)が生きてるような錯覚、君が居るのが妄想でもいい、とも取れます。
「今でもこの眼は眠ってる 何も見えずにただ君を見てる」
ノーチラス「もう目を覚まして」は、エイミーがここに居るという妄想から目を覚ますのかなと。

「何も見えずにただ君を見てる 彷徨うように」
彷徨うように=サマー酔うように で、夏に酔って妄想を見るとか。



踊ろうぜの「人間なんて辞めたいな そうだろ、面白くも何にもないだろ」は、
人間を辞めて、尾も白い(おもしろい=面白い)動物になったと取れます。
人間にはそもそも尾が生えてないので、尾も白く(面白く)はないです。

踊ろうぜ「どうせ割り切れないこの感傷」は、終わり切れない感傷、
「人間なんて辞めたいな」で生まれ変わった後も続く感傷なのかなと。
終わり
を割り
割り切れない=終わり切れない

だから僕は音楽を辞めた「どう割り切ったらいいんだ 満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感」は、
満たされない限り天国に行けず(成仏できず)生まれ変わりを続ける、終わり切れないとか。



ノーチラス「丘の前には君がいて」は、
五十音表で考えて、
おかの前→うえ→上→「さよならの速さで顔を上げて」
おかの前→え→絵→「君を何度だって描いているから」 と取れます。
顔を上げて見た、描いた絵の中を二人で行くのかなと。



夜は、地球で一番大きな影だと思えます。
ただ君に晴れ「僕らの影に夜が咲いていく」は、影が夜みたいに大きくなっていくのかなと。
陽が落ちて影が伸びた=大人になって背が伸びた とも、
大きくなった影の中で想い出が暮らしてるとも取れる気がします。

夕凪某に「想い出の僕ら、夜しか見えぬ幽霊みたいだ」とあります。
第一夜「雲の影が流れて往く」「想い出は夏風、揺られながら」は、
風に流れる雲の影(小さな夜)の中で、想い出の幽霊が見えると取れます。
想い出が見えるたび、心も揺れるという。
ふくれ雲の影に隠れた、雲隠れした貴方に出逢える夢だったのかなと。

雲と幽霊MVで歩いてる横断歩道が、ピアノの黒鍵と白鍵に見えました。
『夏陰、ピアノを弾く』は、雲の陰の中でピアノの上を歩いてるのかなと。 「陰」という字の「云」は、雲の回転する様子の象形ですし。

月光DVD冒頭「欠けてしまった何かを探している」は、月の満ち欠けを連想します。
月の欠けた部分は、月面での夜の部分、陰なので、
かげってしまった何か、夜の中の何かを探してるのかなと。
『夏陰、ピアノを弾く』では、陰(夜)の中で音を頼りに、ピアノを弾く誰かを探している気がしました。

「間」の旧字は「閒」で門の間から月の光が見えるさま、「隙」も間から日が漏れるが由来らしいです。
月が日になったと思うと、エルマの日記「桟橋の隙間から漏れ出た日光が、月明かりのよう」を連想します。
エルマ(曲)とエイミー(曲)の「夏の隙間」は月光で、エルマとエイミーの間には月光が差してたのかなと。

カトレアにも「夏陰の間眠っても」とあり、「夜しかもう眠れずに」に対応してると思いました。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。