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三浦自伝

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フリーペーパー「三浦編集長」に掲載した『三浦自伝』です。読むと三浦の生い立ちから大森に辿り着くまでのことや三浦の人となりが多少分かります。おそらく、何の役にも立たないのですが・・…
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#群言堂

三浦と茅葺き|三浦自伝 番外編

三浦と茅葺き|三浦自伝 番外編

(写真:東山植物園の合掌造りの家にて姉と母と。全然屋根が写っていないが…。)

なぜだろう。茅葺き屋根の下にいると安心するのは。

例えば雨降りの中、雨宿りしてぽたぽたと軒から垂れる雨の滴を眺める時。暑い真夏の太陽から逃げて、茅葺きの土間に入りひんやりした空気を感じる時。

どんな時も茅葺き屋根の下に入れば、人は守られる。そして不思議と心が安らいでくる。そんな力を、茅葺き屋根は持っていると思う。

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三浦と音楽〈その五〉|三浦自伝⑰

三浦と音楽〈その五〉|三浦自伝⑰

(写真:女性社会の中、本当によく頑張ったね)

ついにフラメンコギターに出合った20歳の秋。

独特の和音の響きと歌や踊りとの掛け合いに惹かれて始めたはいいものの、フラメンコの知識はほとんどなく、その難しさにはてんで想像が及んでいなかった。

リズムも奏法も、それまで知っているものとは全くの別物だった。右も左もわからないうちは、ただただ部室で一人基礎練習を繰り返すしかなかった。

半年ほどしてなん

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三浦と音楽〈その四〉|三浦自伝⑯

三浦と音楽〈その四〉|三浦自伝⑯

(写真:バンドのスタジオ練習でふざける三浦。なんなんだこの写真は・・・)

高校の終わり頃から、ちょっと粋がってジャズやボサノヴァを聴くようになっていた。

当時ラジオをよく聴いていて、名古屋の人気ラジオ局ZIP FMでやっていた「OZ MEETS JAZZ」という番組が主な入り口だったと思う。ちょっと大人ぶりたい、背伸びしたい時期だったのだ。

大学で上京して一人暮らしを始めてからは、もし女の子

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三浦と音楽〈その三〉|三浦自伝⑮

三浦と音楽〈その三〉|三浦自伝⑮

(写真:高校時代、スタジオでレコーディング中のバンドマン三浦・右)

南アフリカで挫折したバイオリンの次に楽器に触れるきっかけとなったのは、帰国後の中学2年の正月に手に入れたあるバンドのCDだった。

それは、中身の当たり外れが激しく俗に「鬱袋」と呼ばれる本屋「ヴィレッジヴァンガード」の福袋に入っていた唯一まともな商品だった。当初「これもガラクタか」と思いながら再生してみたところ、流れてきたサウン

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三浦と音楽〈その二〉|三浦自伝⑭

三浦と音楽〈その二〉|三浦自伝⑭

(写真:南ア・喜望峰にて両親と)

小学校1年生の頃、突然バイオリンを習いたいと言い出した三浦。

おそらくバイオリンを弾けたらカッコいいとでも安易に考えたのだろうが、やりたいと言ったことをやらせてくれる親がいたのはありがたかった。

父はギター、母はバイオリンとフルート、姉はピアノ、トランペットをやっていたので今思えば腕前はさておき音楽一家であったと思う。さっそく地元名古屋の鈴木バイオリンで子供

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三浦と音楽〈その一〉|三浦自伝⑬

三浦と音楽〈その一〉|三浦自伝⑬

(写真:父と離れて暮らしていたアメリカ時代の三浦・3歳くらい)

これまで三浦自伝は「三浦が大森にたどり着くまで」というタイトルで連載してきたが、前号で大森にたどり着いてしまったので新シリーズを始めようと思う。現在の三浦を形成してきたものを様々な側面から描き出したい。今回からしばらくテーマは「三浦と音楽」である。

レコード会社のプロモーション担当の父、ラジオDJなども務めたアナウンサーの母のもと

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震災直後の移住|三浦自伝⑫

震災直後の移住|三浦自伝⑫

(写真:ようやく卒業証書を手にした三浦と友人のしんちゃん)

その日、三浦は東京・西武多摩川線多磨駅前「ケトル」にいた。学生時代入り浸っていた大学近くの喫茶店だ。

大学最後の一ヶ月となる3月、就職も決まり、卒論も苦労しながら提出し、あとは免許を取って引越しするだけという時期だった。

いつものようにケトルでコーヒーを飲んでいる時、突然大きな揺れが襲った。「これは危ない」とそこにいた皆で外に出てみ

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インターン、そして|三浦自伝⑪

インターン、そして|三浦自伝⑪

(写真:充実したインターンが終わりテンションが上がって山手線一周を歩いた時の写真)

群言堂にインターン希望の手紙を出して間もなく電話で連絡が来た。

電話の主は現在の上司にあたる人物で、当時、群言堂が運営する東京・高尾のIchigendoというカフェの店長だった。

そこで高尾でインターンしてみるのはどうかという提案を受けたが、すっかり大森町に惹かれていた三浦は「いや、大森町に行きたいんです」と

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松場大吉との出会い|三浦自伝⑩

松場大吉との出会い|三浦自伝⑩

(写真:2009年夏、むしゃくしゃして自転車で高尾に行って食べた思い出の蕎麦)

進路の決まらないまま大学4年目は過ぎていき、卒論提出を見送り一年間休学することを決めた。

しかしせっかくのモラトリアムを得たのに、「落ちこぼれた」という負の意識に支配されていた三浦は満足にシューカツに取り組めなかった。

日本社会はレールを外れた者に不条理なほど冷たいと悪態をつきながらニヒリズムに浸った時期もあった

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フラメンコとシューカツの狭間で|三浦自伝⑨

フラメンコとシューカツの狭間で|三浦自伝⑨

(写真:面接の後そのままの格好でライブに出る三浦)

一度舞踊場に足を踏み入れてからは気持ちが軽くなり、進んで伴奏に行くようになった。女社会でうまくやっていく術も母と姉に鍛えられて心得ていたので、それほど苦労はしなかった。

術といっても「相手の話はよく聞き、自分は何も意見しない」というくらいのものだが…(なんとも消極的な処世術だ)。

練習と伴奏を繰り返し多少弾けるようになってくると、他の大学の

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大学生活あれこれ|三浦自伝⑧

大学生活あれこれ|三浦自伝⑧

(写真:まだ馴染めていない三浦が亡霊のように写る集合写真)

大学2年の夏、ボート部を退部した三浦の心は荒んでいた。

辞めるまでの部内のいざこざで精神は消耗し、退部してしまった自分自身の根性のなさにも自信をなくし、辞めた後、運動量が激減したことも大きなストレスになっていた。

ボロボロの三浦にとって、当時仲の良かった同じ学科の女の子は希望の光だった。会うたびに癒され、だんだん心惹かれてついにある

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大学受験~上京篇|三浦自伝⑦

大学受験~上京篇|三浦自伝⑦

(写真:ボート部時代の三浦・右)

2004年、ついに三浦も受験生となった。英語が得意だったこともあり、行動範囲を海外に広げてたくさんの新しいことを知りたいと外国語学部を受験することにした。

地元の南山大学が近くて評判も良かったが、母と姉の母校だったため、なんとなく同じところは避けた。「どうせなら東京の有名な大学に行こう」という単純な理由で東京外国語大学を受験することに決めた。

勉強嫌いで英語

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中学・高校篇|三浦自伝⑥

中学・高校篇|三浦自伝⑥

(写真:弓道部時代の三浦)

南アフリカから3年ぶりに帰国したのは13歳の冬、1999年12月6日だった。

姉と一緒にヨハネスブルクから香港経由で、小牧の名古屋空港に降り立った(母はあと半年南アにいた)。帰ってきた実感が湧かず、ただ夜の町をぼんやりと眺めながら父の車で実家に帰った。

姉が通っていたことと高校受験がないからという安易な理由で、名古屋大学教育学部附属中学・高等学校の編入試験を受けた

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南アフリカ篇ーその2ー|三浦自伝⑤

南アフリカ篇ーその2ー|三浦自伝⑤

(写真:ジンバブエ・ビクトリアの滝にて姉と)

寮生活にも慣れて不味いメシの中に美味さを見出すレベルになると、大概のことは上手くいくようになった。

寮のルームメイトに持ち物を盗まれたり、クラスメイトにいじめられたりと多少のトラブルはあったが、いい友人や先生に恵まれ、うまくやり過ごすことができた。

不味い不味いと繰り返し言っている食事だが、中にはおいしいものもあった。敷地内に牧場があったので牛乳

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