野菜の日8/31🥬ただの日記

今日で8月が終わる。夏のおわり、ひとつの節目。

蜘蛛の巣越しに見えた雨あがりの空が、透明な虹を見せた。シャボン玉や、水たまりに油分がういた時みたいなハッキリとした色ではなく、透明なうえに乗せられたみたいな虹色。

私はここ数年間、ずっとおんなじことを言っている気がするのだが、今年は人生が濃い。

ともだちに話してもそれは確かに濃いね!と賛同される。「ここ5年」が出来事で言うと10年くらいの密度だ。
もの凄いスピードで自分の人生が動いていってる感覚がする。
人生を終えるときにどこにいてなにをしてるかなんて予想もつかないけれど、振り返って色々あったというのは「なんにもない」よりは、いいのかもしれない。

変わることを恐れていた過去の自分へ、私の人生は変わらないことなんてないからもうその変化を楽しんじゃえと伝えたい。(変わってしかいない)
ひとことで言うと、“色んなことがあった”ということなのだが、どうしてもこの『色んな』がわんさかあって本当に思い出や記憶としては15年分くらいのスケールかもしれない。人生に色んなことが起こって変わった人なんて、きっと私だけではないんだろうと思いながらも、こんなに色んなことが起こるのは客観的視点から見ても珍しいんじゃないだろうかと、我ながらに思ってしまう。

環境の変化(主に勤め先)がとても多かったり、初対面の人に会いに行く数に伴って、出会いと別れがたくさんあった。
スポーツカーのヒッチハイク、電車で人から本を貰う、面接官からの「パイオニア的存在になってほしい」、値切ってくれたタクシーの運転手さん、婚活パーティーでマッチングした人からの紹介で友だちになった経営者、など。

もうひとつ言ってしまえば、これは私だけの個人的な始まりや終わりだけに留まらず“人の節目”に立ち会うことも多い。良くも悪くもである。
友だちのプロポーズや結婚式の演出、バイト先の閉店、イレギュラーなルートからの入社、事例のないタイプの人事異動、プロジェクトの立ち上げに携わる、母親が倒れた瞬間、「人に話したことないんだけど…」と持ち掛けられる話など。

思い返せばそう言ったことがあった時はいつだって“よく分からないままに走る”スタイルだったように思う。走りながら築いていくことは楽しい。決まっていない、まだ土台や事例がないことには「先が見えない、分からない」からこその楽しさがある。

これまでに起こった“初めての試み”みたいなものにチャレンジできる機会が、今の経験のすべてを作ってくれた。そしてその経験こそが、今の私の“血肉”に成っている。

なんだかんだ、自分はそういったことが好きなのかなとも思う。
初めての人と話すことや、やったことがないことをやってみることはやっぱり楽しい。
色んなことをやってみると、イメージと違ったことがたくさんあって、それは『やってみた』から見えた景色でもある。

『生きている』とは『やってみる』ことでもある

改めてそういうものをこれからも臆せず、楽しんでいきたいと、今思えている。

始まりと終わりのタイミングに、澄んだ虹をよく見る。これまで起こった“色んなこと”が彩りをみせてくれているのかもしれない。
この秋に、なにか新しいことが始まるそして始める感覚がある。まだなにも見えていない。

数ヶ月後にまたこのページを振り返ってみたい。

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