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ちょっと既視感

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以前にもこんなこと書いたような気がするけれど……というマガジンです。
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記事一覧

「ストレス解消」の嘘。

「ストレス解消」の嘘。

その昔は、高圧的な医者がいて、
「どうした」
「風邪なんですが」
「余計なことは言わなくていい、風邪かどうかは私が決める!」
などということがあった。
今はそれほどのことはない。権威を振りかざす人は稀にいるが、30年ほど前からだろうか、アカウンタビリティ、インフォームドコンセント、セカンドオピニオンなどという言葉が一般化してからは、きめ細かく説明をしてくれる医師や看護師がほとんどになった気がする。

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座右の銘は「不謹慎、無意味、中途半端」

座右の銘は「不謹慎、無意味、中途半端」

座右の銘は何ですか。

これは、どんな職業の人でも、一度は聞かれたことがある質問ではないだろうか。大人なら、座右の銘ぐらいは持っていて当然、と思っている人も多いだろう。就職試験の面接でも、当たり前のように聞かれるのが志望動機と座右の銘だろう。多くの人は、「有言実行」「一期一会」「臥薪嘗胆」「生きるとは、呼吸する事ではなく行動する事だ」「初心忘るるべからず」「石の上にも三年」「失敗は成功の元」「なせ

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四重人格のススメ

四重人格のススメ

日本は殊に、「一筋さん」を尊敬する傾向が強いのではないか。

脇目も振らず、「これ一本で生きる」という人は、何につけても格好いい。一筋で生きるものが見つかれば、素晴らしいことだし、雑念なく集中して積み上げたり掘り下げたりすることができて、偉業を達成することもできるのではないか、とも思う。

毎年春と秋に、その道一筋での功績を讃えられる紫綬褒章の発表があるが、私がその栄誉に与ることは絶対にない(もし

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遅ればせながらの自己紹介風

遅ればせながらの自己紹介風

最近、noteを始めました。

「これこれこういう事を書いてほしい」
「これについて書きなさい」
と、要望に従って書くことがほとんどでした。
「これを書こう」
と、自発的に書くことも、SNSではありましたが、まとめて残す場所を漠然と探していたのだろうと思います。
私のする事なので、ジャンルや内容に「一筋感」はありませんが、ひっくるめて自分なのだろうなあと思います。

コロナ禍で途絶えているワークシ

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伊勢のホテルでの怪奇現象!

伊勢のホテルでの怪奇現象!

超常現象など微塵も驚かない気質の私が体験した、不可思議極まりない怪異譚?です。東京に戻るのを翌日に控えた2020年11月14日の午後、壁に貼られている鏡に向かってMacBook Proを開いて原稿を書いていると、左脚の膝の裏側あたり、お灸でいう「三里」(さんり)の辺りに、違和感があった。ずいぶんと長い間気がつかなかったのだが、足を組み替えたところで大きな異物感があったのだ。十数センチのもので、硬い

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伊勢神宮の正式名称は

伊勢神宮の正式名称は

日本の神道、神社における「おおもと」ともいうべき、伊勢神宮。内宮には天照大神、外宮には豊受大神を祀るこの巨大な神社は、大昔から日本の精神的支柱として機能してきた、「歴史ある」と言う言葉すら軽く感じてしまうような場所である。個人的には、1971年だか72年だかに小学校の修学旅行で訪れてから、2度目は2016年に中日新聞の取材でやって来て、そして今回が3度目となる「お伊勢さん」への参詣だった。4年前の

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サンボア100周年と演劇大賞で赤っ恥

サンボア100周年と演劇大賞で赤っ恥

2018年に、「行きつけ」と言っても叱られないと思うが、私も常連の末席に置いてもらっているバー・サンボアが100周年を迎えた。そのルーツは神戸にあるとされる。サンボアという名前の由来については、常連だった谷崎潤一郎が名付け親であることは確かなようだ。1918年(大正7年)に、岡西繁一氏が神戸市生田区北長狭通6丁目に「岡西ミルクホール」という喫茶店を開店、洋酒も提供する酒場へと発展していった。その後

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仏教について 信じることと疑うこと

仏教について 信じることと疑うこと

 私は、東京の下北沢で「般゚若(パンニャ)」というカレー店を営んでいる。一見風変わりなこの店名は「摩訶般若波羅蜜多」の元となった「マハー・パンニャ・パーラミータ」の「パンニャ」の部分を漢字で書き、パーリ語(古代インドの下層階級の言葉)の発音に近づけて読んでいただけるように「般」の字の右肩に半濁点をつけたロゴにした。カレーもインド発祥と言えるだろうし、仏教における叡智が、スパイスを使って健康や食欲を

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「朝まで生テレビ」と「朝までナメてれば」

「朝まで生テレビ」と「朝までナメてれば」

平成元年の春先のことだったと記憶している。もうタレントとして活動して5年ほど経っていたが、しかしまだ西宮北口の実家にいた頃だ。いつものように、師・中島らもさんや鮫肌文殊らと、大阪は堂山町の雑居ビルの3階にある東條英機似のマスター、いや、ママと呼ぶべきか、とにかく気のいい店主がいるバーで飲んでいた。ここはなぜか関西の演劇人、落語家、放送人、文筆業、音楽家が集う。キーパーソンがらもさんだったことは確か

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