マガジンのカバー画像

文学と本。

7
文学や本の追求。
運営しているクリエイター

記事一覧

小説を哲学へ。

小説を哲学へ。

 まず、なぜこのような考察が可能なのか。それは本当のところ、小説で表現できること(伝えられること)と哲学でできるそれが同じだからである。(当然だが技法が違うのだから伝わるものは全く同じでない)してみれば我々には、突然だが[小説をする]という表現が可能なのである。
 とすれば、私が今から論じるべきは技法についてなのだからそれについて今からは述べることにする。すなわち、例えば我々は小説では同情するし、

もっとみる
小説とは何か。

小説とは何か。

 まず、このことを論ずるにおいて断っておきたいのだが、私はここで小説を定義するというよりかは、小説とはこうであってほしいという[願望]を述べることのみをする。(押し付けがましく感じられるかもしれないが)
 さて。(率直に言うが)私の願望では小説は[人間なるもの]を専ら描写して欲しいのである。だからつまり、物語というものを主体とすることで[その登場人物]を描写することのみを私は嫌っている。そうではな

もっとみる
自己啓発本について(自己啓発本が嫌い)

自己啓発本について(自己啓発本が嫌い)

 自己啓発本を読む目的は何か。それは言ってしまえば、賢くなるためだろう。だがしかし、人が教え込んでそうして伝わるものは、その個人が受け取り吸収できうるものはどれ程だろう。私の自説では50%もないだろう。まあこれは言うまでもなくひどい数字である。
 ではなぜそうなのか。それはまさしく[人の意見]でしかないからである。すなわち、[個人特有の経験や思考とは異なった意見]でしかないからである。してみれば、

もっとみる

詩なるものとは。
音楽家たらしめているものが「音」ならば、詩人たらしてめているものは「文字」あるいは「感情」あるいは「理性」なのでないだろうか。そして加えて、それの言語化、それの上で先駆者に似通ったそれを詩なるものだと私は考える。まあ、これだけの説明では若干の手抜かりがあるが。

詩たらしめているもの。
詩を読んで人は感じて考えるようである。そしてそれは実際、詩なるものがそれを目的としているからでしかない。すなわち、本題のそれの正体とはその目的であり、そしてそのためには感性や知性を要するのである。もっとも、みんながみんな目的意識を持っているとは思えないが。

本と知性について。(賢くなりうるのか)

本と知性について。(賢くなりうるのか)

 考えることのできる人、もしくは知識の豊富な人が本を手に取るのは何ゆえになのか。それは好きだからでしかない。対して、受験生が参考書を手に取るのは何ゆえにか。それは狭義で言えば、傾向を掴むためである。では今から起業する人が本を手に取るのは何ゆえにか。それは(受験生の例に似ているのだが)コツを得るためである。このように本を手に取る理由は身分によって変わるのだ。(嫌な言い方だが)
 とすればつまりは、か

もっとみる

読書について。
蔵本が増えることに喜びを感じるのはその「本を得ること」においては正当であるが、例えばそれがより多くの知を得られたと考えるのは危険な考えである。なぜと言うに、読書とは元来「知る」でもなく「教わる」ためのものでもなく、いかにもそれは「考える」ためのものであるからだ。