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物語のようなもの

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短いお話を思いついた時に書いています。確実に3分以内で読めます。カップ麺のできあがりを待ちながら。
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2022年2月の記事一覧

『その日の午後』

『その日の午後』

朝から頭が上がらない。
熱を測ってみるが平熱だ。
会社への連絡はもう少し後にする。
最悪の場合は遅刻させてもらおう。
もう一度、布団に潜り込む。

2度寝をしても変わらない。
もうすぐ始業時間だ。
布団にくるまったままメールを打つ。
休みます。
しばらくして返信。
わかった。
理由も聞かれない会社。
誰も座っていない自分のデスクを思い浮かべる。
視覚と聴覚だけの自分が、デスクの斜め下あたりから、オ

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『青い傘』

『青い傘』

向こう側をご覧なさい。
若い男女が欄干に腕をのせて、川面を見下ろしています。
2人の後ろを大勢の人が行き過ぎます。
誰も、彼らを気に止めようともしません。
各々の目的地に急いでいます。
曇り空、今にも降り出しそうな天気ですから。
そんな中で、彼らだけが、小さな淀みのように動きません。
後ろ姿から見ると、歳のころは、20台半ば、あるいはもう少し上かもしれません。
川面を見つめながら話をする2人。

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『惨劇の夜』

『惨劇の夜』

玄関を入ってすぐの、娘の部屋のドアは閉まったままだ。
着替えて、妻と2人の夕食をとる。
「今日もか」
「ええ、今日もよ」
そんな会話が毎日繰り返されている。
食事を終えると、2人で娘の部屋の前に立つ。
ドアをノックするが返事はない。
部屋の中からは、微かに音楽が聞こえてくる。
娘の名前を呼ぶが、返事はない。
妻の呼びかけにも返事はない。
数回繰り返すが、変わりはない。
あきらめて、リビングに引き返

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『結婚詐欺師』

『結婚詐欺師』

俺のことを人は結婚詐欺師と呼ぶ。
しかし、俺は騙したりはしない。

俺は、愛しているなどとは決して口にしない。
詐欺師じゃないから、嘘はつかない。
愛されるのはいつも俺だ。
金品を要求したこともない。
愛した男が困っていると助けてあげたい。
世の中には、そんな母性溢れる女性が多いというだけのことだ。

俺を愛する女性は、裕福な女性が多かった。
信用してはもらえないだろうが、たまたまだ。
なぜ裕福な

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『スプーン曲げの少年』

『スプーン曲げの少年』

ある程度の年齢以上の方ならば覚えておられるだろう。
1970年代半ばの超能力ブームを。

ブームの火付け役は、ユリ・ゲラーだ。
イスラエルの超能力者で、1974年には来日もした。
テレビカメラの前で、スプーン曲げや、念力による壊れた時計の復活などを披露した。

それに呼応するように、日本でも1人の少年が注目を浴びた。
仮にSとしておこう。
当時中学生だったSは父親に連れられてテレビ局に現れた。

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『バレンタインデー』

『バレンタインデー』

着替え終えた頃には、暗くなりかけていた。
野球部はいつも最後になる。
グランドを横切り、校門で「じゃあ」と別れる。
ほとんどは駅の向こう側に住んでいる。
残った仲間と田んぼに囲まれた道を歩く。

練習から戻った時に、教室の机の上に脱ぎっぱなしにしていた制服が畳まれているかどうか。
畳まれていれば、必ずその中にチョコレートが隠されている。
その中学校では、そんな風習があった。
畳まれていたのは、駅の

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『2つの秘密とひとつの夕陽』

『2つの秘密とひとつの夕陽』

小さな町に若い男女がいました。
2人は恋人同士でした。
いつまでも一緒にいようと約束しました。

2人は成長しました。
彼は夢を持ちました。
その夢はこの小さな町では叶えられない夢でした。
彼女に夢を打ち明けました。

彼女にも夢がありました。
この町で彼と暮らすことです。
彼と彼の家族と、
いつまでも暮らしていきたい。

夕暮れの丘の上で
2人は話し合いました。
それは長い長い夕暮れでした。

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『押し花』

『押し花』

転勤の辞令が出た。
昇格と共に地方の支社に異動となる。
栄転なのか、左遷なのか微妙なところだ。
いずれにしても、勤め人としては従うしかない。

会社では単身者用の寮なら用意できるという。
家族でなら、補助は出るが自分で探さなければならない。
単身寮に入ることにした。
もともと妻は、娘の学校のこともあり残ることになる。
私立の高校なので転校はできない。
打ち込んでいるクラブ活動のこともある。
まあ、

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『栞』

『栞』

ここに一冊の文庫本がある。
もう何十年も前のものだ。
普段は日の当たらないところに置いている。
できるだけ優しく扱ってきたつもりだ。
誰の目にも触れないように。
それでも、時は容赦しない。
紙は潤いを失い、活字は少しずつ薄くなってきている。
まるで乾いたページの向こうに帰ろうとするかのように。

今ではあまり聞かなくなった作家だ。
もう絶版になっているかもしれない。
3分の2あたりのところに栞が挟

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『ゾンビの小説』

『ゾンビの小説』

おはようございます。よろしくお願いします。
新しい小説はなかなか好評ですね。売れ行きも好調です。
僕も社内で鼻高々ですよ。
あ、このコーヒー、美味しいですね。
やっぱり、優れた芸術家は違いがわかるものですね。
お世辞じゃないですよ、そんな。
本当に美味しいですよ。

で、今日はこの勢いで次回作を出しちゃいましょうという提案なんです。
実は、先生に書いていただきたいものがあるのです。
それは、ゾンビ

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『たこ焼きエレジー』

『たこ焼きエレジー』

拓さんの店は駅前のロータリーから少し入ったところにあった。
狭い店の中にある小さなテーブルのまわりは、僕たち野球部のたまり場だった。
店の名前は「たこ焼きの拓ちゃん」
拓さんがねじり鉢巻で焼くたこ焼きは、タコが大きいので結構流行っていた。
中学校では、登下校中の飲食は禁止されていた。
「大丈夫、何かあったら俺が何とかしてやるよ」
拓さんはそう言って、何人かの名前を出した。
拓さんが通っていた時の先

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『節分とランナーコーチ』

『節分とランナーコーチ』

9回の裏。ツーアウト。得点は7対0。
そんな状況から、2塁打を放った。
盛り上がるベンチに応えるようにガッツポーズ。
それはそうだ。
ノーヒットノーランを阻止したのだから。
何とか1点でも返して、完封も逃れたい。
もう勝てるとは思っていなかった。

リードをとり始める。
もう、ショートもセカンドも累に入ろうとはしない。
それはそうだろう。
この点差でツーアウト。
バッターに専念するべきだ。
キャッ

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