見出し画像

『惨劇の夜』

玄関を入ってすぐの、娘の部屋のドアは閉まったままだ。
着替えて、妻と2人の夕食をとる。
「今日もか」
「ええ、今日もよ」
そんな会話が毎日繰り返されている。
食事を終えると、2人で娘の部屋の前に立つ。
ドアをノックするが返事はない。
部屋の中からは、微かに音楽が聞こえてくる。
娘の名前を呼ぶが、返事はない。
妻の呼びかけにも返事はない。
数回繰り返すが、変わりはない。
あきらめて、リビングに引き返す。
妻は、食事をトレーにのせて、娘の部屋の前に置きに行った。
「すまない」
戻ってきた妻に声をかける。
「大丈夫よ。きっとわかってくれるわよ」
妻は笑顔を向けると、私の前のグラスに残っていたビールを注いだ。

私は1年前に再婚した。
前妻は約10年前にガンで亡くなった。
当時4歳の娘と2人で途方に暮れた。
周囲の助けもあり何とか生活を始めた。
それからは、家事と仕事を必死でこなし続けた。
娘が小学校の中学年くらいになると、少しずつ助けてくれるようになった。
簡単なメニューだが、夕食の用意もしてくれるようになった。

お互いに何でも隠さずに話すように努めていた。
会社のことも、小学生にわかる範囲で話をした。
娘も学校のことや友だちのことを話してくれた。
父子家庭など今どき珍しくないが、私たちはそんな中でも、うまくいっている方だと思っていた。
後から考えれば、何でも話しているようで、ひとつだけ2人の会話から抜けていたものがあった。
亡くなった妻のことだ。

やがて、私にも新しい出会いがあった。
もちろん、ためらいはあった。
彼女は初婚で、こちらは2度目で娘がいる。
それに前妻のことが全て忘れられたかというと、決してそんなことはなかった。
それでも、そんなことも含めて受け入れてくれそうな人だった。
私は決心した。
前妻の両親も快く認めてくれた。
墓の向こうで前妻がうなづくのを、見たような気もした。

ただひとつ失敗したのは、娘への報告が遅れたことだ。
中学生になり思春期を迎えた娘に、私は気後れしていたのかもしれない。
娘は新しい母親を受け入れようとはしなかった。
妻がこのマンションに来て以来、自分の部屋に引きこもっている。
私は何度もドアに向かって話しかけた。
謝りもした。
妻も一緒になって話しかけてくれた。
しかし、ドアが開くことはなかった。

休みの日には、妻の提案でできるだけ出かけるようにした。
娘がひとりで、自由にできる時間を作ろうという、彼女の気配りだ。
確かに、帰宅してみると、キッチンで飲食をしたような形跡はあった。
キッチンのテーブルに手紙を置いて出かけてみたこともあった。
帰ってみると、手紙は引き裂かれてゴミ箱の中だった。

ある日、夕食をとっていると、妻が「ごめんなさい」と言ってきた。
昼間、昼食をトレーにのせて娘の部屋に運んだときのこと。
妻はもう1年になると思うと、つい言葉がきつくなってしまったらしい。

出ていけというなら出ていく。
しかし、それでお父さんを悲しませて、困らせて、あなたは平気なのか。
いったい、あなたは何様なのか。
亡くなったお母さんは、そんなあなたを望んでいるのか。
もちろん、私はお母さんのことは何も知らない。
それでも、親が何を望んでいるのかはわかる。
あなたが出ていくのなら、それもいいかもしれない。
ただ、お父さんと私は、一生消えない傷を負う。
それだけは忘れないで。

いったん話しだすと、歯止めがきかなくなったという。
「まあ、いいさ」
私はうなだれている妻の前にグラスを置いて、ビールを注いだ。

次の日、午後の仕事も間も無く終わろうとする頃、携帯にメッセージが入った。
娘からだ。
いい予感はしない。
「あの女は馬鹿だ。きっと馬鹿だ。どうしようもなく馬鹿だ。
 だから、今夜、決行してやる」
携帯を持つ手が震える。
昨日の妻の話。
顔から表情の消えていくのが、自分でもわかった。
昨日のうちに何とかするべきだったのか。
デスクを片づけ、上司と同僚に急用でとだけ断って会社を飛び出した。

マンションに着くと、エレベーターを待つのももどかしく、階段をかけ上がった。
手が震えて、鍵が上手く差し込めない。
両手を使って何とか、玄関に入った。
娘の部屋のドアは開いている。
突き当たりのリビングのドアは閉まっている。
すりガラスから明かりが漏れている。
靴を脱ぐのももどかしく廊下を駆けた。
ドアを開ける。
私は、その光景を見て、座り込んでしまった。

食卓で、妻と娘がこちらを見て笑っている。
「パパ、靴くらい脱いでよね。とんだ惨劇だよ」
「お前、決行って…」
娘が妻にウインクした。





この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,694件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?