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『押し花』

転勤の辞令が出た。
昇格と共に地方の支社に異動となる。
栄転なのか、左遷なのか微妙なところだ。
いずれにしても、勤め人としては従うしかない。

会社では単身者用の寮なら用意できるという。
家族でなら、補助は出るが自分で探さなければならない。
単身寮に入ることにした。
もともと妻は、娘の学校のこともあり残ることになる。
私立の高校なので転校はできない。
打ち込んでいるクラブ活動のこともある。
まあ、そうでなくてもついてきたかどうかはわからない。

上司は一年で戻れるように努力するよと言ってくれている。
それがあてにならないことは、これまでの例でわかっている。
転勤先で定年を迎えた先輩も何人かいる。
逆に、辞令を拒否したために退職に追い込まれた者もいる。

ブラック企業かと言われればそうなのかもしれない。
しかし、企業などどこもそんなものだろう。
たまたまブラックな面が表に出てきたところがブラック企業と呼ばれるのだ。
ブラックと名乗るだけ良心的とも言えるかもしれない。

単身赴任の準備を始めた。
衣服や日用品は妻に任せた。
新しく用意したパソコンの設定などをすすめる。
仕事の資料なども整理した。
捨てるべきものはこの際に処分する。
ついでに書棚の整理も始めた。

持っていく本、残す本、処分する本に分けた。
処分する本は、ブックオフにでも持っていく。
古い単行本を引き抜いたその奥から、これも古い文庫本が出てきた。
タイトルももう読みにくくなっている
ページをめくるとほこりが舞い上がった。
処分の山に移そうとした時、ひらりと舞い落ちたものがあった。

古い記憶がよみがえる。
10代の頃。
好きな本をやりとりする。
そんな恋があった。
本を閉じるように終わりを迎えた。
何度繰り返しても同じように終わるに違いない恋だ。
あの人は今はなどと考えもしない。
妻に話したこともない、他愛もない思い出だ。

舞い落ちた押し花を拾い上げる。
今にも崩れてしまいそうに乾いている。
窓辺のサボテンの脇にそっと置いた。
妻は気づくだろうか。

少し迷ったが、文庫本はやはり処分する山の上に置いた。


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