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『たこ焼きエレジー』

拓さんの店は駅前のロータリーから少し入ったところにあった。
狭い店の中にある小さなテーブルのまわりは、僕たち野球部のたまり場だった。
店の名前は「たこ焼きの拓ちゃん」
拓さんがねじり鉢巻で焼くたこ焼きは、タコが大きいので結構流行っていた。
中学校では、登下校中の飲食は禁止されていた。
「大丈夫、何かあったら俺が何とかしてやるよ」
拓さんはそう言って、何人かの名前を出した。
拓さんが通っていた時の先生らしいが、僕たちの知らない名前ばかりだった。

拓さんは、中学2年の夏休みに、この郊外の新興住宅地に越してきた。
今ではもう古くなっているが、当時は駅の向こう側には新しい家が立ち並んでいたらしい。
2学期からの転校生は自分ひとりだろうと思っていたが、そのクラスにはもう一人いた。
彼女も同じ住宅地に越してきていた。
帰る方向が同じなので、慣れるまでは一緒に帰りなさいと先生が言った。
「先生が神様に見えたよ。運命があんなに俺に優しかったことはないね」
拓さんは一目惚れしていた。
「おかっぱ頭とくりっとした瞳にいかれちまった」

少しすると、お互いの家で勉強したりするようになった。
日曜日にもどちらかの部屋や、天気の良い日は公園などで過ごすことが多くなった。
「『ノストラダムスの大予言』は当たると思う?」
「僕たち、その時は何歳になってるかなあ」
そんなとりとめのない会話をしていた。

「その頃は、ノストラダムスの言う地球滅亡の日っていうのが遥か遠くに思えたよ」
ノストラダムスさえ知らない僕たちに拓さんは説明してくれた。
そんなことに日本中が、しかも、大人まで騒いでいたというのが、信じられなかった。
今ではそんな怪しい情報はネットにあふれているのに。
「そうだよな。毎日滅亡してるよな」

通学路の途中に、おばあさんがひとりでやっているたこ焼き屋があった。
どちらかというと校則を忠実に守る2人だったが、唯一守らなかったのが買い食いだった。
「こう見えて、その頃は優等生だったのさ」

拓さんは、それだけで「世の中に反旗を翻した」気持ちになった。
「高揚していた」とも言った。
「でも、いろいろ差し引いても、美味かったんだよ。外はカリっと、中はトロっと。拓ちゃんのたこ焼きはそれを再現してるのよ」
夕焼けの中、ひと舟のたこ焼きを2人で食べながら帰った。

彼女が見たいというので、両親に臨時の小遣いをねだって「エクソシスト」を見に行った。
上映前に後ろに座った大学生くらいの男が隣の女に、
「あの口から吐く緑色のやつはグリーンピースのジュースらしいよ」などと自慢げに話していたので、そっと席を移ったりした。

「彼女がしがみついてくるかなと期待していたけど、それはなかったな」
でも、帰り道に初めて入った喫茶店で、
「レモンスカッシュのさくらんぼの枝を口の中で結んでみせるとすごいって言ってくれたよ」
僕たちも、それはすごいと思った。

年が明けても、2人は手をつなぐだけで、それ以上には進まなかった。
おりしも山口百恵が、
「口づけもかわさない清らかな愛は〜」と歌っていた。

もちろん、拓さんは僕たちの前で歌った。感情たっぷりに。

その頃には、クラスでも2人が付き合っているというのは知れ渡っていた。
特に騒がれもしなかったのは、都会から越してきた2人に、自分たちが田舎者だと思われたくなかったからだろう。
というのが拓さんの見解だ。
つまり都会の中学校では男子生徒と女子生徒がつきあうことなど、とりたてて騒ぐことではないという憧れに似た妄想を、地元の生徒たちは抱いていたと言うのだ。
拓さんたちのように駅の向こう側に帰る生徒と、こちら側の地元の生徒の間には、表には出ない溝のようなものがあったという。
多分、その溝は今では埋め尽くされているのだろう。

バレンタインデーには、生まれて初めてチョコレートをもらった。
ホワイトデーのお返しは白いマシュマロ。
「その頃はね、チョコのお返しはマシュマロと決まってたんだ」
3年になっても同じクラス。進学は、2人とも地元の公立高校を希望した。
新しい担任はこの成績なら大丈夫でしょうと太鼓判を押した。

夏休みに入って間も無く、彼女は家族と旅行に出かけた。
帰ってきたと電話をもらった翌日、彼女の家に迎えに行った。
「タワーリングインフェルノ」を見に行くつもりだった。

ここで、拓さんによる映画の詳しい説明が入るのだがそれは省こう。

玄関の呼び鈴を押した。
応答を待つまでの間はいつも緊張する。
もう一度押した。
家の中で、ピンポーンと音がする。
それ以外に物音がしない。
名前を呼んでみたが、返事はない。
その日は、あきらめて家に帰った。

次の日も、その次の日も同じだった。
ピンポーンが鳴り終わる度に、静けさが深まった。彼女が遠ざかった。
それでも拓さんは、押さずにいられなかった。

夏休みの間、彼女の家を訪ね続けた。
途中から、たこ焼きを買って持って行くようになった。
彼女が出てきたら2人で食べようと。

結局、たこ焼きはひとりで食べる日が続いた。
「それで、こんな腹になっちゃたのかもな」
と、拓さんは丸いお腹を叩く。

拓さんは、悪い奴らが彼女の家族をさらって行ったと思った。
お母さんは、もう忘れた方がいいよと言った。
何か知っているんじゃないかと疑ったが、何となく、そこは足を踏み入れてはいけない場所のような気がして聞けなかった。

2学期が始まった。
始業式の後、教室で先生は告げた。
彼女が転校したことを。
職員室で、引越し先を先生に尋ねたが、先生はそれは知らないと言った。
多分、先生は、それは言えないと言いたかったのだ。
その日拓さんは初めてひとりで帰った。
そして思い出した。
そう言えば、2人とも皆勤賞だったなと。
思い出しながら、その日もたこ焼きを買った。

9月も半ばになった頃、「夜逃げ」という言葉がクラスで囁かれだした。教室の隅で、拓さんは自分には関係のないことのように聞いていた。

僕たちが、3年生最後の試合に負けた夏の日のこと。
「俺の奢りだ。さあ、食え、食え」
拓さんは僕たちの前にたこ焼きを、どんと置いた。
「お前らの、今日の悲しみとか悔しさとかをそのたこ焼きにぶち込んであるからよ、さっさと食って、明日から笑顔で頑張りな」
誰かが、鼻を啜り上げた。
それから、みんなが我慢できずに泣き出した。
「辛くて、苦くて、それに少し甘いだろう。それが人生の味なんだよ」
拓さんはキザなことを平気でいうことがある。
その時のたこ焼きは、辛くて、苦くて、甘くて、少ししょっぱかった。
みんなの頬っぺたの涙の跡が、夕日で光っていた。

拓さんは、ひとりの帰り道、たこ焼きに何をぶち込んでいたのだろうか。
そのたこ焼きは、辛くて、苦くて、甘くて、それにどんな味が加わっていたのだろうか。

拓さんは地元の公立高校に進学した。
程なくして、おばあさんのたこ焼き屋はなくなった。
「おばあさん、亡くなったのかもな」

高校を卒業すると、拓さんは都会の大学に進学する。
その頃には、彼女の家には別の家族が住んでいた。
大学を卒業して就職する頃、拓さんの両親も仕事の関係で関西の町に引っ越した。

拓さんが大学の3年になったばかりのこと。
ある日の昼下がり、友人ら数人と繁華街をぶらついていた。
その日は、午後の授業が休講となり、みんなで繰り出した。
どこで飲み始めようかと、店を探しながら歩いていた。
その時、ふと一人の女性が目に止まる。
雑居ビルの前でタバコを吸う女性。
間違いない。
彼女だ。
身長も伸びて、髪も伸びている。
それでもわかった。
あの頃の可愛さは消えて、すっかり綺麗になっている。

駆け寄って、前に回り込んだ。
彼女の目を見つめた。
くりっとした瞳は、面影を残しながらも切れ長の大人の瞳になっていた。
その成長した目で彼女も見つめ返してきた。
その時の目を忘れられないと拓さんは言う。
驚きと、懐かしさと、恐怖と、それに哀しさと…

「久しぶりね」
「私の人生にどうして現れたのよ」
「もう、あの頃の私じゃないの」
そんな言葉が、彼女の中でルーレットのようにぐるぐる回っている。
彼女は、それを吹き消すようにふーと煙を吐いた。
何かを言わなければ。
「あのたこ焼き屋は、もうないんだよ。それに…」

「そんなことしか言えなかったよ」
拓さんは笑う。
「でも、それでよかったんだ」

ビルから出てきた男が彼女の肩をたたいた。
「誰? 」
彼女は小さく顔を横に振った後、男を振り向いた。
「知らない人よ」
男は拓さんを睨みつけると、彼女の肩を抱いて歩き始めた。
彼女も男の腰に手を回していた。
もう片方の手に持ったタバコを、男の口に咥えさせていた。
夕焼けの街で、2人の影は拓さんの足元から遠ざかって行った。

その時、拓さんは思ったらしい
自分は彼女の中から消えたんだと。
彼女はあの時、蛍光灯を消すように自分を消去したんだと。
心の中で涙を流しながらかどうかはわからないが。
「パチンという音が聞こえたよ」
大人の、しかも女性の気持ちなど、当時中学生の僕たちにわかるわけもない。
「彼女の人生という部屋に、俺はもう場違いな存在だったんだよな」
その一週間後、梅雨入り宣言が出た。
拓さんは、間も無く21歳になろうとしていた。

拓さんは大学を卒業した後、金融関係の会社に就職して、そのまま都会で働き続けた。
拓さんは、「バブリー」な生活のことを僕たちに話してくれた。
「この世の春だったね」
給料が上がるたびに拓さんは、夜な夜な想像したそうだ。
あの時の男の頬を札束でビンタしているところを。

拓さんのこの世の春はいつまでも続かなかった。
バブル崩壊の危機は乗り越えたと思っていた矢先のこと。
「リーマンショック」のあおりを受けて、拓さんの会社は倒産した。
都会で仕事を探すことも考えた。両親の住む関西の町に行くことも考えた。
どこでもいいと考えた時に、この町を思い出した。
「気がつけばこの町の駅に立っていた、というと高倉健みたいでかっこいいんだけどな」

この町に戻ってきた拓さんは、この店でたこ焼き屋を始めた。
どうしてたこ焼きなのか。
彼女がこの町に戻って来ることはない。
彼女はきっと2人の思い出よりも、この町から消えて行った時の嫌なことの方が忘れられないに違いない。
拓さんは最後まで、彼女は嫌々この町を後にしたと思い込んでいた。
「でも、俺のことを忘れても、消去しても、あの時のたこ焼きの味は忘れないと思うんだ。人間、美味いもんの味は忘れないだろ。それに…」
拓さんはねじり鉢巻を少しずり下げた。
「こうして、たこ焼きをひっくり返していると、彼女の心の中のほんの小さなたこ焼きの映像とつながっているような気がするんだよ」
そして、「唯一の願いは」と付け加えた。
「唯一の願いは、彼女が今もたこ焼きを好きでいてくれることだ」

「で、今に至る」と拓さんは笑顔で締めくくった。

僕たちは卒業すると、高校はばらばらになり、拓さんの店に集まることもなくなった。

それから1年が過ぎた頃、拓さんの姿はこの町から消えた。
僕は今、錆びたシャッターが下されたままの店の前に立っている。
西日を受けた僕の影がシャッターに伸びている。
この春に僕は都会の大学に行くことになった。
拓さんとは違う大学だ。

駅前のこの地域は再開発地域に指定され、まもなくこの店も取り壊される。
拓さんが今度この町に戻ってきた時には、すっかり景色が変わっているに違いない。
でも、拓さんはもう戻らないだろう。

拓さんのこの物語は一度に聴いた話ではない。拓さんが少しずつ話したのをつなぎ合わせるとこんな感じになる。
これ以外にも、いろんなことを話してくれた。
もちろん、全てが本当かどうかはわからない。
特に、学正時代に彼女と再開した話などは怪しいものだと思っている。
都会の繁華街で、何年も前に離れ離れになった2人が出会うなんて、映画やドラマでもあるまいし。

拓さんのたこ焼きが美味かったのは事実だ。
あの味は僕の人生のどこかに残り続けるに違いない。
だって、拓さん、美味いもんの味は忘れないよね。

僕は、何十年後かに、この町のことを思い出すのだろうか。
そして、誰かに語っているのだろうか。
自分の子供か、そうでないならば、そのような誰かに。
拓さんの物語に、自分の物語を付け加えて。

さて、拓さんならきっと言うだろう。
こんなとこで感傷にひたってないで、さっさと行けと。

拓さん、もう行くよ。
でもね、最後に拓さん、結局、彼女の名前はとうとう僕たちに教えてくれなかったね。
それにね、拓さんの本名も僕たちは知らないままなんだよ。

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