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『バレンタインデー』

着替え終えた頃には、暗くなりかけていた。
野球部はいつも最後になる。
グランドを横切り、校門で「じゃあ」と別れる。
ほとんどは駅の向こう側に住んでいる。
残った仲間と田んぼに囲まれた道を歩く。

練習から戻った時に、教室の机の上に脱ぎっぱなしにしていた制服が畳まれているかどうか。
畳まれていれば、必ずその中にチョコレートが隠されている。
その中学校では、そんな風習があった。
畳まれていたのは、駅の向こうに帰る者ばかりだった。
だから、こちらはみんな無口だ。

神社の手前でまた、「じゃあ」と別れてひとりになる。
神社の中を横切って近道をする。
境内の隅にある小さな公園が灯りに照らされている。
ブランコに人影があった。
近づいて、声をかけた。
「なんだ、振られたんだろう」
返事がない。
足元に赤い小さな紙袋。
「余ってるんなら、もらってやるよ」
黙って差し出された紙袋を受け取る。
「帰ろうぜ」

1ヶ月後、神社の境内に呼び出した。
少しずつ日が長くなり、練習時間も長くなっていた。
それでも、1ヶ月前よりも人影ははっきり見えた。
「これ、余ったからやるよ」
白い紙袋を差し出した。


春には5年生になる娘が突然チョコレートを作り出した。
材料を揃えるところから付き合わされた。
どこで覚えたのか。
娘に尋ねても、「ジョーシキよ」としか答えない。
どうせ、スマホか、私のパソコンで調べたのだろう。

渡す相手はいるのかなどとは聞けない。
聞いても答えないだろうし、こちらも本当に知りたいのかどうか。
「ねえ、そこのハート型の取ってくれる」
娘よりも、チョコレートを受け取る相手に仕えているようで腹立たしい。
「どうしたの。パパ、笑顔がないよ。娘の成長は喜ばないと」

見ていると、チョコレートは2セットになりそうだ。
それはそうだろう。
娘を持つ父親の特権だ。
「だめよ。これはママにあげるのよ」

翌日、娘はスキップでもしてきたような上機嫌で帰ってきた。
多分、上手く行ったのだろう。
これくらいの年代で心を打ち明ける。
私の頃には想像できなかった。
少なくともあの田舎町では。

夜、いったんベッドに入った娘が起きてきた。
チョコレートの赤い包みを持っている。
昨日、これはママにと作った方だ。
「これ」と言って差し出してきた。
「ママがパパにあげなさいだって」
私の膝に置くと、部屋に戻っていった。

子供の成長っていうのは嬉しいだけじゃないんだ。
君は多分、成長が嬉しい頃しか知らないだろうけど。
嬉しくて、寂しい時もあるんだよ。
妻の写真に手を合わせて語りかける。
チョコレート、ありがとう。
もらってやるよ…

娘の部屋のドアを開けようとした。
寂しくなるだけよ。
妻の声が聞こえた。

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