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『栞』

ここに一冊の文庫本がある。
もう何十年も前のものだ。
普段は日の当たらないところに置いている。
できるだけ優しく扱ってきたつもりだ。
誰の目にも触れないように。
それでも、時は容赦しない。
紙は潤いを失い、活字は少しずつ薄くなってきている。
まるで乾いたページの向こうに帰ろうとするかのように。

今ではあまり聞かなくなった作家だ。
もう絶版になっているかもしれない。
3分の2あたりのところに栞が挟まれている。
もう何十年も同じところに挟まれている。
その栞が動くことはない。
窓を開ける。
見下ろした庭からは、賑やかな笑い声が聞こえてくる。
夫の声も混じっている。
下からは見えないぎりぎりの高さにまで、文庫本を持ち上げた。



早生まれで17歳になったばかりだった。
朝、教室に彼の姿はなかった。
別に生徒の一人が休むのは珍しいことではない。
誰も気にする様子はなかった。
昼休みに職員室の前にある公衆電話から、彼の家にかけてみた。
誰も出なかった。

帰りに駅をひとつ乗り過ごして、彼の家を訪ねてみた。
インターホンを押すと、彼の母親が出た。
今はごめんなさいと言われた。
さすがに異変は察知していた。
しかし、彼はまだ生きていると思っていた。
そう思わない理由などなかったから。

彼はあの時、もうこの世にいなかったのだ
担任からそのことを知らされるまでの1日。
彼が生きていると思っていた1日。
彼の死とそれを知るまでの1日。
その空白ともいうべき1日という時間がとても不思議に思えた。
おかしくもあった。
ごめんね、生きてるって思っちゃって。
彼に騙されたようでもあった。
俺が命を絶つなんて思わなかっただろう。

告別式にはクラスの全員が参列した。
学生服がずらりと並ぶ光景はどこかで見たような気がした。
彼との仲を知っている数人が肩を叩いて慰めてくれた。
泣きなさいよと言われているようで、泣いた。
それほど親しくなかった者にとっては、イベントのひとつでしかない。
授業がなくなってラッキーという声も聞こえた。
死とは常に他人のものでしかない。

出棺を待つまでの間は、参列者にとっては手持ち無沙汰な時間だ。
男性教師たちは集まって煙草を吸っていた。
ふと、肩を叩かれた。
振り向くと、彼の母親だった。
これ、と言って一冊の文庫本を差し出された。
彼に貸していた小説だった。
返すようにとメモがあったらしい。
頭を下げて受け取った。
栞が挟まれていたところを何気なく開いた。
そして、すぐに閉じた。

その夜、自分の部屋でその文庫本を取り出した。
栞のページを開いてみた。
読みきれなくてごめんと書いてあった。
いつもの彼よりもさらに下手な字で。
人は死ぬ前には、字が下手になる。
そんな思いこみを持ったのはこの時だ。
本を閉じた。
彼という人間の最後の言葉がここにある。
いかに寄り添おうとも、死とは常に他人のものでしかない。
せいぜい、残された者は泣くことしかできないのだ。



窓の下から賑やかな笑い声が飛び込んできた。
見下ろすと、2人の孫と夫が遊んでいる。
あまり無理しないでくださいよと声をかける。
こちらに手を振る夫の真似をして孫たちも手を振る。
笑顔で応える。
風はまだ冷たい。
文庫本をそっと引き出しにしまった。
残された者の物語も、間も無く終わろうとしている。



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