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『青い傘』

向こう側をご覧なさい。
若い男女が欄干に腕をのせて、川面を見下ろしています。
2人の後ろを大勢の人が行き過ぎます。
誰も、彼らを気に止めようともしません。
各々の目的地に急いでいます。
曇り空、今にも降り出しそうな天気ですから。
そんな中で、彼らだけが、小さな淀みのように動きません。
後ろ姿から見ると、歳のころは、20台半ば、あるいはもう少し上かもしれません。
川面を見つめながら話をする2人。
おや、ポツポツと小雨が落ちてきましたよ。
彼女は、持っていた青い傘を差し掛けました。
さて、少し若い2人に思いを馳せてみましょうか。


父親に連れられて初めて市中にやってきた、浅い春の日のことを彼は忘れられない。
母親は生まれたばかりの弟の世話で家に残っていた。
笑顔で2人を見送った。
彼は、初めて見る賑やかな街が楽しくて仕方がない。
父親は黙って、彼をまず映画館に連れて行った。
生まれて初めて映画をみた。
大きなスクリーンで、テレビと同じアニメを見た。
そのアニメのことを父親がどうして知っているのだろうか。
不思議だったが、面白さの方が勝った。
映画が終わると、喫茶店に2人は入った。
父はコーヒー、彼はホットケーキとメロンソーダ。
父と2人で、決して子供だけで来ることはない、大人の空間にいることがうれしかった。
その後は、デパートのキッズコーナーで遊んだ。
高いビルの展望台にも行った。
あのあたりが家のあるところだと父は指差した。
夕方に近くなり、駅へと向かう。
途中の橋の上で、父は立ち止まった。
父は欄干に腕をのせて、川面を見下ろした。
彼もさくに足をかけて、何とか欄干から川面を見ることができた。
風は冷たさを増していた。
少しすると、父はひとりで話し始めた。
彼は黙って聞いていた。
子供の彼には長い話だった。
父が再び歩き出した頃、早春の日は沈もうとしていた。
彼は、父と2人だけの秘密を持てたことがうれしかった。

いつとも違うとは思っていた。
時間も違う。
場所も違う。
それに、いつもは少し黙って欲しいと思うくらいの彼が無口だった。
昼食後に入った喫茶店でも無口だった。
というか、あろうことか、彼は昼間からビールを飲んだ。
真っ昼間から、喫茶店でビールなんて。
周囲の目もあって、恥ずかしかった。
どうしてこんなもの、おいてるのよ。
店が恨めしくもあった。
彼と付き合いだして3年になる。
同期で入社した時から、面白い人だとは思っていた。
2年くらいして、部署を超えたブロジェクトで一緒になった。
それがきっかけで付き合うようになった。
もちろん、3年もあればいろんなことがあった。
喧嘩をしたこともあった。
普段はおしゃべりな彼の愚痴を聞くこともあった。
でも、こんなに無口な彼は初めてだ。
心配するよりも、様子を見てやろうと思った。
彼は繁華街を歩き回った。
街の真ん中を流れる川の堤防に下りた。
堤防を歩き、また橋の上に戻った。
曇り空。
青い傘を持ってきていた。
去年の誕生日に彼からもらったものだ。
橋の中ほどで彼は立ち止まった。
欄干に肘をついて、川面を見つめ出した。
仕方なく、その隣に並ぶ。
2人の後ろを目的地に急ぐ人々が通り過ぎていく。
あのさ。
えっ。
彼は川面を見つめたまま話し出した。
あのさ、僕の父は若い頃、この橋の上で、ついにプロポーズできなかったことがあるんだ。
これ、実はずっと父との秘密なんだけどね。
でも、僕は、もし、将来、そんなことがあれば、僕に子供ができて、この橋の上で話すようなことがあれば…
少し彼の方に肩を寄せた。
僕は…そのときには、僕は、自分の子供に父とは違う話をしたいんだ。だから…
雨が静かに降り出した。
青い傘をさした。


さて、早い春の雨はまだもう少し降り続きそうです。
名残り惜しくはありますが、妄想はこれくらいにして先を急ぎます。
よろしければ、皆さんはもう少し若い2人を見守ってやってください。
それでは。









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