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スーパーバッドなエマ・ストーン あるいは (哀れなるものたちのお気に入り)②カラー編

前回の手紙にも書いた通り、映画『哀れなるものたち』には白黒パートとカラーパートがあって、エマ・ストーン演じる主人公ベラがその世界を確立させて自由意志を持てるようになるまでを白黒、自由意志を持って旅に出て以降をカラーで表現しているのね。それに重ねて、エマ・ストーンと『哀れなるものたち』について語るときに私たちの語ること、つまり私たちが自由意志を持ってそれを語ることができるようになるための下準備は終わったと思ってもらって構わないわけよ。もしまだ前の手紙を読んでないのであれば、以下のリンクから飛んでそっちをまず読んでからこっちに戻ってきてほしいな。なんでか、それは、こっから、誰がなんと言ったって私は、この冒険に向かってマイ進するからよ。

名誉ある人であれば誰でも、自分が出した書物を認めなければならない。
(Tout honnête homme doit avouer les livres qu'il publie. )

ジャン=ジャック・ルソー『新エロイーズ』(Julie ou la nouvelle Héloïse)、拙訳。

ただ行って帰ってくる映画の系譜

前にも伝えたことあると思うんだけど、ただただ行って帰ってくる映画って好きなわけよ、ほら、要するに帰って来れないロードムービーって美しいけど悲劇的な終わり方になりやすいからさ、キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を読んで以来、英雄譚を忠実に作る映画が好きなわけよ。例えば、近年でいうと『マッドマックス 怒りのデスロード』とか、『オデッセイ』とか、アニメだと『千と千尋の神隠し』とか、最近だと『バービー』もその系譜だと言っていいんじゃないかな、そんでもって、その究極の行って帰ってくるの反復映画が『PERFECT DAYS』だったんじゃないのかな、なんて思ったり。
『哀れなるものたち』もやっぱりこの系譜に属していると思うわけ。日常の世界から旅立ち、父の危篤を聞きつけて帰還したと思ったら、そこからまた旅立ち、最後の決闘に勝利し帰還して、"Ladies? Gin?"(みんな?ジン飲む?)から幸せそうに乾杯し、主人公ベラが笑顔で本を読むシーンで終わるわけでしょ。あれは家父長制の終焉と家母長制の誕生を祝っているわけよね、まるで娘が父の地位・職務を引き継ぐかのように。だからフェミニズム映画というよりは、ポストフェミニズム映画に近い、もちろん否定的な意味で。スラヴォイ(・ジジェク)も3月にロンドンに来てた時に、「あんなのフェミニズ映画でもなんでもなくてただの身障者差別の女性嫌悪映画だ、代わりにバービーを観ろ、バービーを!」みたいなことを言っててさ、まぁ、そうだよなぁ、って思うところもあるわけ。
でも、2024年のトップ10にはもちろん入って来るぐらい好きな作品であることは間違いないし、さらに言えば現時点では1位なわけよ、『マッドマックス:フュリオサ』、『デッドプール&ウルヴァリン』や『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の方がより好きになりそうと自分でも思っているわけだけど、でも、映画館出てすぐにリスボン行きのチケットの値段調べて、その1ヶ月後には実際にポルトガル旅行行ったわけよ、この映画に影響されてさ。ほらだって、映画のリスボンも当然美しかったわけだけど、何よりフレッシュ・オイスターを白ワインで流し込むシーンは最高に美味しそうだったし、ベラみたいに誰にも注意されずに無限にパステル・デ・ナタ(エッグタルト)を頬張りたくなるのもわかるでしょ。それに、原作者のアラスター・グレイがベラ/ヴィクトリアを彼の出身地であるグラスゴー(またはスコットランド)に重ねているって聞いたから、4月上旬のイースター休みにはグラスゴーとエディンバラを巡るスコットランド旅行にも行ったわけよ。私に影響を与えて、実際に、私の身体を動かした作品をどうしても肯定的に語りたいわけよ。

哀れなジャック、哀れなゴッドウィン、哀れなヨルゴス

良い映画と好きな映画って全く別ってことがあるでしょ。この『哀れなるものたち』って良い映画だと断言はできないけど、好きな映画なわけ。好きな映画って、その時の自分の状況にマッチしていたり、自分がそのときに見たかったものが見れたり、その喜びで好きになるわけ、その映画体験そのものが好きになるというか。
それで、その時ちょうどヘーゲルの『精神現象学』を再読してたり、キャートリン(カトリーヌ(・マラブー))の授業があったりもしたことで、この作品はめちゃくちゃヘーゲル的な映画じゃんって思ったわけ。ほらだって、この前も言ったけど私は『精神現象学』全体を貫くテーマって精神の成長物語、青春ロードムービーとして読んでたわけよ。脳移植手術による脳の可塑性、それに精神と身体のチグハグな関係ってまさにキャートリンの哲学なわけで。
それにさ、彼女が授業中に指導教官であったデリダについてエピソードを話したことがあって、そこでの擬似的な父と娘の関係が全く映画そのままでびっくりしたわけよ。つまり、キャートリンはアカデミックにおける父殺しを図るためにヘーゲルで博論を書くって決めて、当時それをデリダに伝えた時、彼からヘーゲルだけは絶対的にやめておけ、ヘーゲルは立ち入り禁止エリアだ(正確には、No-go Areaって確か言ってたと思う。)って言われたらしいのね。それで、「そんなにあからさまに否定されるとやっぱり書きたくなるよね」ってことで、書いたのが、あの名著、『ヘーゲルの未来』だったってわけよ。デリダがその本の序文を書いているわけだけど、そこで明らかに彼のヘーゲル読解は破壊され、新しい形でのヘーゲル読解を余儀なくされたと彼は認めてしまっているわけだし、だからタイトルは「さよならの時」なわけでしょ。
それで何が言いたかったっていうと、それってそのままベラとゴッドウィンじゃない?、ってこと。ベラがダンカンとリスボンに行くって伝えたとき、ゴッドウィンは明確に絶対に行くなと止めるわけよ、でもベラから「内面が憎しみで腐ってしまう」って言われたら、あっさり彼女の冒険を認めるわけ、しかも万が一のために備えてサポートまでしてさ、あんなに「ただ純粋な実験結果が欲しいだけ」とか言ってた散種する創造主ことゴッドウィン(Godwin)がだよ。
それで、失われた何かを取り戻すようにお酒を飲んでさ、多分寝る前に読み聞かせしてたこととか、仕事から帰ってきた時に喜ぶ表情とか、初めて外出した時に嬉しそうな笑顔とか、その後アイスクリームを買ってもらえなくて癇癪を起こしたこととか思い出しながら。だから、ある種のフランケンシュタイン映画として観ると見誤るというか、見落とす部分が多い気がする。だって、父と娘の関係性だからさ。っていうか、あれだ、マックス役のラミー・ユセフがインタビューで答えていた通り、この映画の企画自体が<禁止されてたことへの侵犯>みたいなものだから、娘の危険な冒険を承認する父ってテーマはあながち間違ってないのかもね。

ヨルゴスは私に、ずっと作りたいと思っている映画が1つあるんだけど、みんなに「その映画は作らないほうがいい」と言われ続けてきたんだ、って話してくれて、それで彼は私にこう言ったのです、「私たちはその映画を作るぞ」って。
(Yorgos told me that there has been one movie he has been wanting to make but everyone like do not make that movie, and he said to me 'we gonna make that movie')

POOR THINGS | The Making-Of Broadcast Special | Searchlight Pictures

ヘーゲル的な、あまりにヘーゲル的な

と言ったような意味のことがボールペンで走り書きにしてある、そんな手紙のスクショがDMに来たのである。確かに肯首できる部分も多い。特に、『哀れなるものたち』が非常にヘーゲル的な映画であるという部分である。私の大学院の友達の指導教官がその同僚と本作について議論している際、ヘーゲル的な要素がたっぷり詰め込まれているという話になったらしい。彼らによると、皿を割ったり、歌に聞き入ったり、喧嘩を見たり、初めてダンスをやってみたり、お酒の味を覚えたりと、全てが経験により意識を形作っていく過程である点がヘーゲルらしいし(『精神現象学』の仮題が『意識の経験の科学』であったことを想起せよ)、特に父が人体の解剖をしている際に、その父の真似事(ミメーシス)を行い、理性の象徴である目を潰すという映画『アンダルシアの犬』を思わせるシーンが印象的だったという。
そして欲望という名の自意識が芽生え、性的欲求を満たすための自慰行為を行うようになり、それが禁止されると怒り、外の世界を見たいという欲求が抑えられずに旅に出かけるのである。そして、旅先で何をするかといえば、欲望の赴くままの行動である。一日中Furious Jumpingこと性行為を行い、美味しくないものがあれば吐き出し、面白くない話があれば聞く耳を持たず、うるさい赤ちゃんがいれば黙らすためにパンチしに行こうとする、といった一連の行動である。そしてベラは疑問を持つ。なぜみんなは一日中セックスをしないのか、なぜ美味しくないものを口の中に入れておかないといけないのか、なぜ面白くない話を聞き続けなくてはいけないのか、なぜうるさい赤ちゃんを黙らすことがダメなのかと。
「人間が残酷なケダモノであることから逃げる」ための学問である「哲学なんて時間の無駄」と主張するハリーや、「人々と世界は改善できるのだから」、「哲学は不可欠だよ」、「ゲーテを読みなさい」と主張するマーサといった新しい友達と出会い、熱心に本を読むようになることで、ベラはそのような<世界>に対する疑問を解決しようとする。ちなみに映画内で読んでいた本は ラルフ・ウォルドー エマソンの『愛と友情について』である。
世界を理解し、それをより良いものにしたいと思うベラに対して、本当の<世界>とはどんなものなのかを教えてあげようと申し出るハリー。そこでベラが目にした光景は、死んだ赤ん坊が横たわるような貧困にあえぐスラム街であったのである。自分がお金以外に何も持っていないことを悟るベラは、精神が疲れてしまい、魂が折れ曲がりペチャンコになってしまったと語る。しかし翌日には、まるで彼女の精神がまた成長したかのように、<世界>の痛みを知ったからこそ、それをどう改善していけばいいのかがわかるといった具合である。
資金不足に陥った結果、豪華客船を追い出されたベラは、このお金のない状況もある種の実験だといい、これまた実験としてパリの娼館で娼婦として労働を始めることになる。そしてこの労働によって、ベラは現実性とその意識を形作ることになるのである、まるでヘーゲルの主人と奴隷の弁証法での奴隷のように。しかし、ファノンがそうヘーゲルを批判したように、現実には主人と奴隷の立場の逆転は起こりえないである。臭かったり、不快であったりしても、娼婦たちはお客さんを選べはしないし、娼婦たちが娼館の女主人に何か提言をしようものなら「この孫を殺したいのか」と脅される始末である。そして、ゴッドウィンの危篤の知らせを聞き、ベラは娼館から逃げ出すようにしてロンドンに帰る。いわゆる女王の帰還である。
そして物語は最後に、相互承認のための「生死を賭けた闘争」を用意していたのである。それは、ベラ/ヴィクトリアを自殺に追い込んだ張本人である彼女の元夫であったアルフィー将軍との決闘である。スコットランドをまるで家畜のように閉じ込め欲望という名の自意識抹殺しようとするイングランドのような残虐性を持つアルフィーと、そのアイデンティティーを賭けてベラ/ヴィクトリアは対峙するのである。その戦いに勝利したベラ/ヴィクトリアは、アルフィーをヤギとして生かす選択をする。亡き父ゴッドウィンへの供物、あるいは神(ゴッド)への贖罪のために、全ての「哀れなるものたち」の罪を背負ったスケープゴートを捧げるようにして。

宿命から逃れられないものたち

船上でゴッドウィンに手紙を書くベラのインクが切れたみたいに、RealForceの電池がなくなりかけていますから、もうあまり長く書かれません。でも最後に、なんでヨルゴス・ランティモス監督は本作を作ったかのかが気になってしょうがありません。
『籠の中の少女』は外の世界を知らない好奇心旺盛な娘が外の世界の人間によって刺激されて外の世界に飛び出していくってところが似ているようにも思えますし、動物に変えられる運命であったり、家族のメンバーがランダムに殺されてしまったりという宿命みたいなものから逃れられないってところは、『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』にも似てなくもないと思う。だって、結局ベラはゴッドウィンの呪縛みたいなものから逃れられかったわけじゃない?
『女王陛下のお気に入り』から考えると、スコットランド起源の最後の君主を描いたってとこが、ほら、愛のない所有物として望まない(イングランドとの)結婚で自殺に追い込まれ、アイデンティティーを喪失したスコットランドをベラに投影しているとしたら、納得できるよね。それにしても、ランティモスはどうしてあんなに動物が好きなのかしらね、毎回動物を必ず入れてくる。
結局、運命や宿命みたいなものから逃れられない人間一般を「哀れなるものたち」と呼んだのかな、って勝手に解釈しちゃっている。でも確か、ドイツ語のDingとObjektの違いみたいに、ThingはObjectを超えた可能性を持つみたいな話じゃなかったっけ。それなのに、ベラには自分だけの部屋が娼館の一室か、家母長制の家にしかないって言われたら、なんか不憫よね。それでも、ベラは世界をもっと知り、それをより良いものにしたいと言うのかな。例えば、エマ・ストーンとミシェル・ヨーや、ロバート・ダウニー・ジュニアとキー・ホイ・クァンのように、過去に犯した誤りをキャンセルするのではなく、お互いの成長のために助け合うことなんてできるのかな、って時々本当にそう思うのね。あぁ、思いが乱れてしまい、もうタイピングが進みません。名残惜しく思います。でも、心から祝福してね。

(追伸)こっちでは6月末公開になるらしい、新作『憐れみの3章』、楽しみにしているね。さようなら。お身体をお大切にね。


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