マガジンのカバー画像

【雑記集】※いたって個人の感想です。

538
雑記・随筆も、書くのが楽しいですね。いや、雑記や随筆こそ、書くのが一番楽しいかもしれません。 そしてこの誰に宛てているわけでもない文章が、漂流して、まったく見知らぬ(かもしれない…
運営しているクリエイター

#自分と向き合う

「わかりにくい地図なら見ないほうがまだマシ」説にもどこか似ている

「わかりにくい地図なら見ないほうがまだマシ」説にもどこか似ている

四六時中誰かに憧れはする。(妄想病。笑)

が、真面目な話をすると。
よくよく考えてみれば意外と、 誰か別の人になりたいわけでもないのだ。

つまるところ、自分ではない誰かの記憶で誰かの感覚で誰かの人生を、少なくとも「ここからは」生きたくはない。

――私は別にそれほど自分が好きでもないし、愛せたら絶対良いだろうと解ってはいるがあまり自分を愛せない。

しかし、それでもそうなのだ。

当たり前の事

もっとみる
「痛い」と感じられるのはまず自分自身なのだから

「痛い」と感じられるのはまず自分自身なのだから

痛いと感じるべき時に痛いと感じられるのは、 心身ともに健康な証拠。

痛いはずなのに、それを感じられなくなったら、 もう相当ヤバいと思う。

――だから、痛いと感じられるうちに、ちゃんと「対処」すべきなのだ。

自分の感じるべき痛みは、誰かが替わりに感じてくれることはない。
共感とか同情はあっても、 「リアルに」痛いのは自分自身。
痛いときに、痛いと感じる、それを認める――「誰より自分で真っ先に

もっとみる
「焦る」「慌てる」は凶兆-「悪い球は見逃す」みたいなことを-

「焦る」「慌てる」は凶兆-「悪い球は見逃す」みたいなことを-

「悪い球は見逃す」みたいなことが、もしかするとどうも今まで生きてきて、うまくできていなかったような気もする。
「打てる球はとにかく打て」 みたいなところがあった。
もちろん「見逃す」をした結果それで 「その打席は三振で終わった」 ってことになる可能性もあるんだけど。

でも、よくよく考えてみれば、「人生は9回で終わるゲーム」ではないのだ。

もちろん運悪く「実はそれが最終打席でした」ってことに

もっとみる
「素の自分」とは?

「素の自分」とは?

「物心ついた頃」の自分に、少しずつ戻りつつあるのかも? という気もする。
……といったところで、本当には戻れないけどな。(笑)

でも、小学校の中学年くらいから、 周りに「同調」「合わせる」という名の「顔色窺い」する事を覚え始め、 ――で、多分、自分はそれが得意な方だったのかもしれないな、とは思う。
別にこれまでの自分が 「本来の自分」「素」ではない、というわけでもないが、「同調」してきたその「

もっとみる
「自分でこそ」自分を変えることは多分できる

「自分でこそ」自分を変えることは多分できる

変われると思えば、たぶん人は変われると思う。

実際、「変われることができた人」はいるのだから。
――その人はきっと 「変われるわけない」とは思わなかったのではないか。

「まず、変われると自分で思わなければ、変われるはずがない」とするなら。
逆にそれならきっと、「変われると思えば、たぶん人は変われる」と、私は感じている、というこれは話である。

そして、自分が変われば、自分を取り巻く日々も、きっ

もっとみる
スタート地点にはいつでも立っているんだよな

スタート地点にはいつでも立っているんだよな

内田樹さんの文章よりメモ書き。

「ここ」がスタート地点なのに、「ここじゃない架空の場所」を設定してスタート地点にしたって、それでは「架空」の域を、いつまでたっても出られないんだよな。

「今の自分」を、どうするか、どうしたいか、から考えて動くようにしないとな。

弱音は吐くものだよ

弱音は吐くものだよ

そうよね、まず、
疲れちゃった時に「疲れちゃった」と。

痛い時に「痛い」と、
つらい時に「つらい」と、
苦しい時に「苦しい」と。

まず口に出しちゃう、
言葉にしちゃう事が大事なのかもね。

それについて考える作業は、
別に、その後からでいいのだったわ。

だって、言うだけで
だいたい、ちょっと軽くなるもの。
――溜め込んでおくと、
どんどん重たくなるばかりだもの。

「ま、どうでもいいか?」で新たに開く扉も結構ある

「ま、どうでもいいか?」で新たに開く扉も結構ある

「ま、どうでもいいか?」で生じるその「隙間」から、 新たに生まれるものは結構存在するし、 むしろそっちのほうがかえって良いものだったりすることも多い。

もうこれから私は、ほとんどの物事を、「どうでもいい」「どっちでもいい」 でいこうと思う。(それは極端すぎますよ。笑)

また、そのほうが、予定調和にならず新鮮だったりもする。

何かを「具体的に」望み過ぎると、それに縛られてしまって、「予定外のサ

もっとみる
「優しい人」

「優しい人」

私は、人から 「優しい」と言われる事もままある。

が、しかし。
私の優しさは、本当の優しさではなく、「人からどう思われるか」 という事について敏感なだけ、ひいては、「人から悪く思われやしないだろうか」 という事に臆病なだけ、 という気もする。

そろそろ、 人の気持ちを慮ることもできつつ、しかし、前述のそれらを「目的」とはしない、 「本当に優しい人」になりたいものだと思うのである。

精神の「金満主義」に陥ってないか

精神の「金満主義」に陥ってないか

働く意味とか、
行動する目的とか、
「全てがお金基準・お金中心」
っつーのは、
どうも抵抗があるし。

確かにお金は大変便利なもので、
「ほとんど何でも」
買えてしまったりするのは
事実かもしれないけど、
でも、それで
「何でも買ってしまえ!」
って思考回路になるのにも
また抵抗がある。
(「お金で買っちゃいけない」
あるいは
「そんな高いお金出して
買うべきじゃない」
そんなものもある、というこ

もっとみる
ここからが本番

ここからが本番

できる範囲で、がんばればいい。

できる範囲を越えてまで、がんばる必要は本来ない。

――という、当たり前の事に、人は気づきにくくなる時がよくある。

「限界を越えてぶっ壊れるまで頑張る事は美しい」
みたいな、間違った刷り込みを、どこかでこれまでにされたような気もする。

子供の頃は「どこまででも歩ける」ような気がしていたけれど。
今は「どこまででも歩ける」ような気はしなくなった。

「人ってそう

もっとみる
「自意識」より「無意識」整えたい

「自意識」より「無意識」整えたい

成程、鏡で自分の顔を見る時は何かしらの「自意識」が働いてしまうというのは、確かにその通りのようである。

で、鏡に自分の顔を映していない時間の方が、日常の大半、ていうか、「ほとんど」なので。

他人に見られるのも、主にそっちの時間の顔がメインになるわけだから、「自意識」働かせていなくてもいい顔でいられるように、 「無意識」から、つまり「心根」から、整えておきたいものだ、なんてことを思った。

自分のために「自分のペース」はあるのだから

自分のために「自分のペース」はあるのだから

急がば回れ、っていうか、 自分が自由に使っていい時間については、 なーんも急ぐことねーわ。
そんなの、 時間得したとしても、 なんかを損してる気もするし。
――てなことが過る。(笑)

自分は自分、こんなもんなのだ。
知識容量もこれ以上多くなりそうにないし、頭の回転速度もこれ以上は速くならなさそうだし、だからもう、 むしろ「脳をフル活用するために、」いろいろ「落ち着いて」いこう。

自分のペース

もっとみる
だって人生の9割は「どうでもいいこと」で出来ている

だって人生の9割は「どうでもいいこと」で出来ている

最近、 素敵なことは、「大切なこと」より、「どうでもいいこと」のほうにあるように感じられて仕方ない。(笑)

「人と時間の目を盗んで、お茶してばかりの人生」然り。

「ヒト気のない場所へ、ヒト気のない場所へと動いていく、自分の習性」然り。(人の気配ましてや人混みなんてとても嫌いな私です。笑)

「私も飽くることなく無心にシャボン玉追いかけて遊びたい。」
なんて、幼い子らの姿を、秋の公園のベンチから

もっとみる