![マガジンのカバー画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/49038418/7333b72e1e07841735e5b15a3ca8dc68.jpeg?width=800)
- 運営しているクリエイター
#自分と向き合う
「痛い」と感じられるのはまず自分自身なのだから
痛いと感じるべき時に痛いと感じられるのは、 心身ともに健康な証拠。
痛いはずなのに、それを感じられなくなったら、 もう相当ヤバいと思う。
――だから、痛いと感じられるうちに、ちゃんと「対処」すべきなのだ。
自分の感じるべき痛みは、誰かが替わりに感じてくれることはない。
共感とか同情はあっても、 「リアルに」痛いのは自分自身。
痛いときに、痛いと感じる、それを認める――「誰より自分で真っ先に
「焦る」「慌てる」は凶兆-「悪い球は見逃す」みたいなことを-
「悪い球は見逃す」みたいなことが、もしかするとどうも今まで生きてきて、うまくできていなかったような気もする。
「打てる球はとにかく打て」 みたいなところがあった。
もちろん「見逃す」をした結果それで 「その打席は三振で終わった」 ってことになる可能性もあるんだけど。
でも、よくよく考えてみれば、「人生は9回で終わるゲーム」ではないのだ。
もちろん運悪く「実はそれが最終打席でした」ってことに
「自分でこそ」自分を変えることは多分できる
変われると思えば、たぶん人は変われると思う。
実際、「変われることができた人」はいるのだから。
――その人はきっと 「変われるわけない」とは思わなかったのではないか。
「まず、変われると自分で思わなければ、変われるはずがない」とするなら。
逆にそれならきっと、「変われると思えば、たぶん人は変われる」と、私は感じている、というこれは話である。
そして、自分が変われば、自分を取り巻く日々も、きっ
スタート地点にはいつでも立っているんだよな
内田樹さんの文章よりメモ書き。
「ここ」がスタート地点なのに、「ここじゃない架空の場所」を設定してスタート地点にしたって、それでは「架空」の域を、いつまでたっても出られないんだよな。
「今の自分」を、どうするか、どうしたいか、から考えて動くようにしないとな。
精神の「金満主義」に陥ってないか
働く意味とか、
行動する目的とか、
「全てがお金基準・お金中心」
っつーのは、
どうも抵抗があるし。
確かにお金は大変便利なもので、
「ほとんど何でも」
買えてしまったりするのは
事実かもしれないけど、
でも、それで
「何でも買ってしまえ!」
って思考回路になるのにも
また抵抗がある。
(「お金で買っちゃいけない」
あるいは
「そんな高いお金出して
買うべきじゃない」
そんなものもある、というこ
「自意識」より「無意識」整えたい
成程、鏡で自分の顔を見る時は何かしらの「自意識」が働いてしまうというのは、確かにその通りのようである。
で、鏡に自分の顔を映していない時間の方が、日常の大半、ていうか、「ほとんど」なので。
他人に見られるのも、主にそっちの時間の顔がメインになるわけだから、「自意識」働かせていなくてもいい顔でいられるように、 「無意識」から、つまり「心根」から、整えておきたいものだ、なんてことを思った。