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「自分でこそ」自分を変えることは多分できる

変われると思えば、たぶん人は変われると思う。

実際、「変われることができた人」はいるのだから。
――その人はきっと 「変われるわけない」とは思わなかったのではないか。

「まず、変われると自分で思わなければ、変われるはずがない」とするなら。
逆にそれならきっと、「変われると思えば、たぶん人は変われる」と、私は感じている、というこれは話である。

そして、自分が変われば、自分を取り巻く日々も、きっと変わる、とも私は思っている。




あるいは、どうせ「自分で自分を変える」なら、自分が愛せる自分に変えていくに越したことはない。

たとえば、自分を、外側から「もう一人の自分」が見た時、
「こんなやつ、信用できねえよw」
「どこまでもずるくて意地汚ねえな、こいつ」
みたいにならないことが肝要だと個人的には感じる今日このごろなのである。

他者を悪意から騙す時、人は、自分をも騙さざるを得ないからだ。
(そこに「100%良心の呵責を感じない」という人間以外は、どうしたってそうなるだろう。)

――人間は「騙す人間」のことを忘れないようにできている。
「嘘つき」と一度認定すると、余程のことがない限り、その認識が覆されることはない。

一時的にちょっとだけ何かで得をしているように見えても、「一番近くにいる人間である自分」には全てバレていて、「この先ずっと常時悪く思われている」って、結局はかなりの「大損」な気が私はするのである。

これは「善悪」の話というより、「そういった類の損だけはなるべく避けて生きていきたい」という(私はそう感じるだけという)「損得」の話なのである。