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「焦る」「慌てる」は凶兆-「悪い球は見逃す」みたいなことを-

「悪い球は見逃す」みたいなことが、もしかするとどうも今まで生きてきて、うまくできていなかったような気もする。
「打てる球はとにかく打て」 みたいなところがあった。
もちろん「見逃す」をした結果それで 「その打席は三振で終わった」 ってことになる可能性もあるんだけど。

でも、よくよく考えてみれば、「人生は9回で終わるゲーム」ではないのだ。

もちろん運悪く「実はそれが最終打席でした」ってことになる可能性もなきにしもあらずだが、――でもその時は、「ゲーム自体が終わる時」なんだもんな、と。

つまりは。
「慌てたりガツガツしたりは (自分の場合は)あまりいい事がこれまでなかった気もする」という、これはそういう話なのである。

「判断する」ならじっくりとする。

「ひらめき」も欲しけりゃ、尚更慌てない事だな、とも思う。


繰り返すが、ホントに、慌てたり、焦ったりで、 いいことがあった試しがほとんどない。
逆に言えば、「慌てる」「焦る」感覚がどこかに出てきたら、「凶兆」だと思ってもいいかも?

というこれはあくまで、ただの※個人的「経験則」にすぎない話なのかもしれないが。

「見逃し」した結果、「やっぱ捕っておけば」ってなった可能性だってあったとは思う……が、 それでも「よく考える」をしていればあまり後悔しないし、少なくとも虚しくはならなかったのではないかな?と思う。
「見逃す」ことで、(形は変わるかもしれんが、でも)何らかの形での「次の打席」が生まれもするのだし。


「長い人生の中で、一瞬ですら損はしたくない」 みたいな、 ある意味「がっついた」そんな自分の感覚が、 ことごとく後悔のもとになってきたかも? という、今回はそんな話でございました。

(余談)
旧暦の感覚で言うと、「一月」はもう新春だから、この「十二月」という月が、やはり「一番最後の月」となるわけですもんね。
気温はともかく、感覚的には「冬の一番深いところ」とも捉えられるかと思うので、そんな「冬の最終月」を、そっと静かに景色を眺めるような、そんな一か月にできたらいいな、と思います。