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「わかりにくい地図なら見ないほうがまだマシ」説にもどこか似ている

四六時中誰かに憧れはする。(妄想病。笑)

が、真面目な話をすると。
よくよく考えてみれば意外と、 誰か別の人になりたいわけでもないのだ。

つまるところ、自分ではない誰かの記憶で誰かの感覚で誰かの人生を、少なくとも「ここからは」生きたくはない。

――私は別にそれほど自分が好きでもないし、愛せたら絶対良いだろうと解ってはいるがあまり自分を愛せない。

しかし、それでもそうなのだ。


当たり前の事かもだが、 自分の人生、 もしも誰かに空け渡したら、 「自分であって自分でない」 という、生殺しみたいな状態で進むことになる。
(場合によっては、自らそういう状況を作り出してしまうことも、よく起こり得ると思う。)

何だか全然うまく言えないけど――この先、手とか脚とか、目とか耳とか言葉とか、確実に衰えていくけど、それでも「そんな自分」ですらも手離せない。手離したくはない。
あるいは、もしもこの先、酷く苦しくても、悲しくても。
「別の人の人生」では、やっぱ何かダメだと思う。

何がダメなのかは、これもまたやはりうまく言えないけれど。

今更「自分じゃない人間」となって、考えたり話したり書いたり、この世を眺めたいとは、どうしても思えないのだわ。


あるいは。

一つ前の記事で、「私」と「私の身体」は別物だ、と述べ、そして、その考えは変わらないけれど。

でも、「私」と「私の身体」は、「鍵穴」と「鍵」のような関係なのだ。
つまり「私」という扉を開けられる「鍵」は、この世で「今の私自身の身体」一つだけであり、そのスペアキーは作り得ないし、無論、どこにも存在しないのだ。

「現世に存在し続ける」そのためには、「私」は「私」であることと、同時に、唯一の鍵である「私を乗せて動ける身体」とが必要だ。

どちらが欠けても、現世においては、私は、私ではなくなる。

――私がいなくなれば、その時、少なくとも「私が見ているこの世界」は消える。
(私は、「一人一人の認識ごとに世界が存在する」、平たく言えば「人の数だけ世界は存在している」と考えている。)

「私が見ているこの世界」は、跡形もなく消えてなくなっても悔いがないほど、そこまで「無価値」なものだっただろうか?

――いや、「私自身」が、「私がいたこの世界」に、少しでもいいものを、少なくともここからは残して終わりたいよな?

なんてことを、考え始めている今日このごろなのである。