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安定よりも刺激、平和よりも競争を求める私たち

なぜ人間は戦争を求めるのか。

口では平和が大事だと言っていても、世界平和というプラカードを求めて世界中でいろいろなひとたちがデモを起こしても、世界から戦争がなくなったことはない。

人類の歴史は、戦争の歴史だ。世界史の教科書で覚えることというのは、たいがいいつどのような理由で戦争がはじまり、いつ終わって、どんな平和条約が締結されたかということだ。その流れが語ることは、こころのどこかで戦争を求めているからなのではないかと思う。

ミサイルが落ちてきて、食料もなくなって、まともな生活などできなくなる。そんなことなんて誰も望んでいない。そう言ってしまうのは簡単だ。ただ、戦争の原因を独裁者にすべてなすりつけてしまうのは、あまりにも話が簡単すぎてはいないだろうか。

私は小学生のころから、ヒトラーさんのことを知っていた。ドイツでどうにかして彼は権力を奪い、ヨーロッパを戦争へと突き進ませた張本人だ。彼が自殺したから、戦争は終わった。彼が美術大学に受かっていれば、戦争は起きなかった。そう言ってしまうのはあまりにも簡単すぎないだろうか?

事実、ヒトラーさんが政治の場にいなかったら、あるいは生まれていなかったら、戦争(第二次世界大戦)が起きなかった可能性はある。ただ、ヒトラーさんは国民を暴力で脅して権力の座に就いたのではなく、選挙で選ばれて議員になったのだ。もちろん、その後彼は暴走していくわけだが、最初に起きたことは彼が当時の総理大臣の権力を強引に奪ったのではなく、最初は選挙により市民から選ばれたのだ。そして、彼は支持されていた。

戦争という言葉がきついなら、「刺激」や「競争」と言い換えてもいいだろう。そういったものがなくなった世界はない。

1日生きているだけで、世界ではいろいろなことが起きる。一日中家にいて落ち込んでいるとか、あるいはずっと外にいていろいろなひとに会ったとか、そういったことをひとは生活と呼んでいる。

テレビをつければ世界の遠くのどこかで今日もミサイルが落ちて、空爆されて、誰かが殺されて、誰かが事故に巻き込まれて、誰かが政治を嘆き、誰かがお金を奪われて、誰かが詐欺に遭って、誰かが依存症で苦しんで、そういったことが入ってくる。

人間は、インターネットのない時代に戻ることができない。一度この世界を味わってしまうと、脳が完全に書き換えられる。現実はインターネットの延長線上にあり、インターネットは現実の延長線上にある。炎上とか、インフルエンサーとか、フェイクニュースとか、詐欺広告とか、そういったものと生き続けることになる。

もし、あなたに30時間が与えらえたとする。仕事も勉強もしなくていい。その代わり、その時間は、なにもない半畳の部屋から出ることができない。寝ることはできないし、ずっと起きていないといけないし、その部屋を出ることはできないし、トイレと食事以外の娯楽や刺激はない。

その時間、あなたはスマートフォンを30時間ずっと連続で使い続けることになる。あるいは、なんにもない部屋でただなにもしない時間を過ごす。そのどちらかを選ぶことを強いられたら、おそらく多くのひとが「スマートフォンを使う」ほうを選び、「なにもしない」ほうを選ぶひとは少ないと予想する。

現代人は、「隙間時間」というものを常に意識して動いている。朝7時30分に目覚まし時計が鳴って、7時35分に起きて、7時45分までに野菜ジュースを飲み終えて、8時までに新聞を読んで、8時から8時半まで朝ごはん、そうして9時の電車に乗って大学に向かって…。そんなふうに、毎日時間を区切って生きていて、その隙間になにをするかということが大事になってくる。

「隙間時間」ということは、隙間を埋めるという意味合いがある。その意味で、「なんにもしない時間」などないに等しい。なぜなら、もし唐突に30分時間が空いたら、間違いなく圧倒的多数がスマートフォンを使って時間をつぶすだろうからだ。たとえば、お友達と3時にコーヒー屋さんでまちあわせているとして、そのお友達の仕事が伸びて彼女が3時半にしか来られないと言ったら、突然空いた30分に多くのひとがスマートフォンを使う。コーヒー屋さんでなんにもしないでぼーっとしているひとは、少ない。電車の中でも、トイレの中でも、お風呂の中でも、寝る前も、ひとはスマートフォンを見ている。

これは、「戦争」「刺激」「競争」ともかかわってくる。

世界のどこかでおもしろい話や、うれしい話や、悲しい話が起きていれば、それは娯楽になる。娯楽というと言い方が悪いかもしれないが、少なくとも「暇」の対極にあるもの、変化のあるものが生まれる。こころにうれしさや悲しさという感情を起こし、平坦な心拍を変えてくれるようなものだ。

たとえば、世界のどこかで「子猫が生まれた」という話があれば、「よかったね」「かわいいね」となる。世界のどこかで痛ましいテロが起きたら「悲しいね」「テロはいけないね」となる。そういったことを私達は求めていて、無味乾燥したなんのニュースもない人生を求めてはいない。そして、その無味乾燥な砂漠と比べたら、たとえひとが死んでいても、悲しいことがあってもいいと考えるひとのほうが多いのではないだろうか。無味乾燥にひとは耐えられない。だからスマートフォンでいろいろな情報を得て、その情報でこころが動いたら、それは「暇」の対極にある。

悲しいニュースなど聞きたくない、こころの健康に悪いと言うひとはたくさんいて、実際悲劇がいくらでも起きてほしいと思っているひとは少ないだろう。ただ、なんにも刺激がない人生と比べたら、そこに変化があるほうがずっといい。そう考えているのではないだろうか。

またなんにもない部屋に戻ろう。あなたはその部屋で、30時間ずっと起きていないといけない。その際に、延々とニュースが流れ続ける部屋と、なんにも情報が入ってこない部屋があれば、おそらく前者を選ぶひとが多いだろう。

退屈をしのぐためなら、私達は他人の不幸をも娯楽として利用する側面がある。そして、「あのひとたちと比べて私は幸せだなあ」と思うか、「いのち(平和)はたいせつなものだなあ」と思うか、「あのひとたちはかわいそうだなあ、代わってあげたいなあ」と思うか、あるいは「あんなクズみたいなやつら、死んでくれてよかった」と思うか、それはそれぞれだが、ニュースを見ることにはそういった感情の動きがある。その感情の動きは、退屈の対極にある。

もちろん、世界平和は崇高な目指すべき使命だ。実現すれば、圧倒的多数が幸せになる。ただ、世界で現在起きている戦争に、それを「娯楽」、あるいはこころの動きとして消費している限り、私達は「暇でいたくない」という思いがあって、それが無意識に戦争に、あるいは競争社会の加速に、加担しているということを自覚することから、はじまるものがある。

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