悪意ない雑談と消えた30kgのコメ
3月上旬までの数週間をジャカルタで過ごした。ちょうどCOVID-19がインドネシアに上陸した頃。最寄りのスーパーでは、コメ類など一部商品が買い溜めの影響で品薄になり出していた。
「最寄りのスーパーに行ったらコメがほとんどなかったよ」と現地の仕事関係の知人に軽い気持ちでその話をしたら、その翌日に別の店舗で買い溜めした旨を報告された。スーパーではコメは1人1個の
偶然的なものにすぎない自己の存在を自らの言葉で語ることによって「わがもの」とすること――こうした詩的営みが「哲学」と呼ばれるべきだとローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)は主張する。他方で、仮にこの主張が《詩人の生こそが模範だ》という命題を含意すると見なされるならば、このプラグマティストの意に反することになる。なぜなら《あらゆるひとに共通する
もっとみる人類はそのつどの状況にたいして実験的メタファーによって「試行錯誤的に」対処してきた――私たちの来し方をこのように把握するとき《哲学とは何か》の理解も変容せざるをえない。ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)の第2章はいわば哲学を脱構築し、或る意味で〈詩人としての哲学者〉という見方を彫琢しようとする。今回はこの点についてである。
哲学の脱構築
実在をありのままに描写する言語的表象をつくりあげること――この企てが取り組まれるべきものでないと気づかれるとき、いわゆる「メタファー」の役割の理解が深まる。ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)の第1章はこうした点を指摘するのだが、今回のノートはこの話題についてである。すなわち私たちの知的活動におけるメタファーの重要性が指摘される。
メタフ
或る特定の言葉が実在と対応しており、そうした語群によって真理が表象される――こうした考えをローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)は拒否するのだが、その根拠のひとつはこの哲学者が《こうした言語イメージは人間の創造的活動にとって足かせになる》と考えることである。ではローティ自身はいかなる言語イメージを奨めるのか。そしてそれをいかにして進めるのか。
もっとみる公的な社会改善と私的な自己完成を区別しつつそれぞれを追求すべし――これがリチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)の主張のひとつである。だがなぜ公と私の接続は禁じられるのか。はじめにこの点を説明しよう。
ローティの見立てによれば、プラトンの大文字の「哲学」は〈公〉と〈私〉の両方を単一の原理のもとで理想状態にもたらそうとする企てである
先日から過去の講義テキストを振り返り、noteに置いておいて何かしらの意味がありそうな箇所を探している。
今回は、拙著にも部分的に活かされたが、部分的に採用されなかった箇所をアップロードしておきたい。
以下は「幸福と人生の意味」をテーマとした哲学の講義の第11回目のテキストである。そこでは〈物語〉・〈人生の絶対的意味〉・〈哲学者 vs 強い詩人〉などが論じられる。
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意味は物語