カルテ12:ローティのせいだ

前に「精神障害を持ってる人の方が世界を正しく捉えていて、健常者の方が好意的に歪めて世界を捉えてる」という仮説があるらしいという話をどっかで聞いたことがあります。

正直これに関しては正しく捉えてる云々は思ってなかったわけですけど、バイアス抜きに世界を捉えるということは、「世界の側が美しくある義理はない」というように、この世界に対しての期待の一切が意義をなさなくなるようなことだと思います。

先ほど思ってないと言いましたがこう言葉にすると一種のバイアス抜きの思考を突き抜けることこそが「本質」ではないかという気持ちがムクムク上がるような気がします。

適当に騙されながら生きる能力がかけてるなりのよすがなんですかね。

ところがですね、最近この哲学者に出逢ったせいでこのよすがすら最終的に壊れるんじゃないかという懸念が生まれてしまいました。
リチャード・ローティです。

この人が唱えた哲学の有り様というのが有名でして「今までの哲学は何かしらの「本質・真理」を追究するものだったが、それは人類にとって有益ではない。」というものです。そして「自らの信念を形作るものは常に別の可能性へと開かれている」という『アイロニスト』という有り様も示しています。
最近NHKの100分de名著で目にして、結構面白い、興味深い内容だなと思いました。

なんですが、ここで困ったことにこの人の言葉に照らし合わせると、「自分が「バイアスを抜きにすることこそ本質が見えるのでは」と言うの結構傲慢なのでは」ということが言えるわけですよ。

ローティの言う脱本質主義の中で「ありのままの世界・むき出しの世界」を見ることがどういう扱いかは知りませんが、そこに「本質」があるとは少なくともローティは口が裂けても言わないと思います。

正直ローティに出逢わなければ「ほれ、精神障害者の方が世界を正しく見れてるんだ」っていう風に歪だけどもいくらか心が楽になる特権的な精神を持てたのになぁと思わないでもないです、南無三。

まぁローティの哲学に照らせば所謂健常者側の理屈も同じくらい解体される可能性もなければならないということでもあるので、痛み分け…痛み分けかなぁ?と思うことにします。

あと散々バイアス抜きの世界の見方みたいなのを説いておきながら、後で「あの時視野狭窄に陥ってた」と振り返ることもあったりするのでゆうて世界を正常に捉えてる側でもないかもしれないです。
「自分とて好意的に世界を捉えてる」という可能性が開かれているということかナッハッハ。

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