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silent 9 解釈: 残酷さに気づくこと


 第9話は、想(目黒蓮)の耳がだんだんと聞こえなくなり、苦しむ想を家族がどう見守ってきたかその過程が描かれ、想が家族と向き合って昔のように笑えるようになる、というポジティブな展開が主軸であった。一方で、遺伝性疾患の世代の問題に踏み込んだシナリオで、軽率な解釈がためらわれる回でもあった。この第9話だけを切り取ってしまうと、世代の問題について描かれた場面の残酷さが放り出されたまま、解決されていないようにみえる。人によっては不満の残る回だったかもしれない。

第9話で描かれた残酷さ

 どうして不満を感じる可能性が生じるのか。第9話だけを切り取って考えてみる。
 世代の問題は想の姉・華(石川恋)の出産に関わる場面で描かれた。出産前の検診の帰り、妹の萌(桜田ひより)と共に母・律子(篠原涼子)に送ってもらう車の中で、華の不安が打ち明けられる。華は「まだ向こうの両親にちゃんと説明できてないんだよね」と想の中途失聴が遺伝性である可能性があること、子どもに遺伝する可能性があることを夫の両親に伝えられていないと相談する。生まれてくる子どもの耳が聞こえなかったらどうしたらいいの?と、華は想のことばかり心配する母・律子に対して感情的になってしまう。律子もまた、想への配慮が無いように聞こえる華の言い分に対して感情的になってしまう。

後日、出産を終えた華の病室に律子が見舞いに来る。華は生まれたばかりの子どもの検査結果を待っていた。病室に医師が入ってきて、検査結果を伝える。
「検査終わりました。井草さんの赤ちゃん、大丈夫でしたよ」
「聞こえてる?」と華は泣くのをこらえて返事をする。
「はい、聞こえてます」
それを聞いて、華は安堵して泣いた。

 一連の場面で、私は華の言動に対して”ひっかかり”を覚えた。
 “ひっかかり”の正体は、耳の聞こえない人に対する残酷さだ。生まれてくる子どもの耳が聞こえないことを過度に心配したり、生まれてきた子どもの耳が聞こえることを「大丈夫」と表現し、泣いて安堵したりする場面は、耳の聞こえない人を傷つけてしまうように思えた。「想の気持ちも考えなさい」と律子が言うように、もし想がこの場面を見ていたら、とても傷ついただろうと想像できる。
 第9話ではこの”ひっかかり”を解決するような場面が描かれない。”ひっかかり”を解決するとは、これらの場面で華がとった言動が残酷な言動であったことを明示することだ。例えば、華に対して誰かがその残酷さを指摘したり、華が自ら考えを変える様子が描かれるなど、華が残酷さに気づく場面が描かれれば第9話の中で”ひっかかり”を解消することができたように思う
 ここまで丁寧に作られてきた「silent」なので、この場面を無自覚に描いたとは考えにくい。どこかで”ひっかかり”を解決する場面が描かれるはずだと思う。第9話の中でもそれを匂わせるような場面があった。
 
 想が久々に実家へ帰ってきた場面。想は自分の部屋でベッドに腰掛け、空のCDラックを見つめている。優生を連れて帰ってきた華が想の部屋に来る。部屋で遊ぶ優生を見ながら、想が華に尋ねる。
「検査大丈夫?」
華は考えてもいなかったことを聞かれたように、
「検査?あぁ、耳?優生?」
と聞き返す。想がうなずく。華は微笑みながら、
「うん、大丈夫」
と答えた。安心した表情を浮かべる想に対して、華は笑っているが複雑な表情を浮かべていた。

 次回予告でも、想が「若年発症型両側性感音難聴 遺伝」とインターネット検索する場面があった。おそらく第10話以降で、さらに世代の問題が踏み込んで描かれることだろう。しかし、あくまで第9話の中では”ひっかかり”がそのままになっているように見えた。これが、残酷さがそのままにされているように見え、不満を感じる原因となるのではないかと思う。

紡がれてきた物語を踏まえて

 ここまで、”第9話だけを切りとって” ということにこだわって考えてみた。しかし、「silent」は連続ドラマだ。これまで放送された8話分を踏まえてドラマ全体で考えたとき、ここまで考えてきた第9話の残酷さは果たして放置されたままなのか。もう一度考えてみたい。

 そもそも、ヘラヘラ生きてきた聴者であるところの私のような視聴者が、なぜこの場面にひっかかることができたのだろうか。それはたぶん、「silent」の第8話までを通してろう者あるいは中途失聴者のありうる人生を知っていたからだ。
 奈々(夏帆)の「音のない世界は、悲しい世界じゃない」「私は生まれてからずっと悲しいわけじゃない。悲しいこともあったけど、嬉しいこともいっぱいある。」という言葉や、笑顔で日々を過ごす様子。そして、想が紬(川口春奈)や湊斗(鈴鹿央士)とまた笑い合えるようになった過程や奈々が春尾先生(風間俊介)との関わりを取り戻していく様子。これらの物語を知っているからこそ、生まれてくる子どもの耳が聞こえないからといって不幸なわけではないし、大変なことはあっても聴者である家族とも共に生きていけるのではないか、と考えることができた。だからこそ、華の言動に表れていた、生まれてくる子どもの聴覚に対する不安が残酷なものに見えたのだ。
 出産前後のあの時期、おそらく華はろう者がどんなふうにどんな思いで生きているのかを知らない。2、3年前といえば、想自身が音のない生活に慣れようと努力している時期で、家族はまだ心配しながら見守るしかなかっただろう。ろう者と聴者がどのように共に生きていくことができるのか、全く想像もつかなかったのではないだろうか。
 自分の子どもが幸せに生きていくことができるのか、また自分は子どもとどんなふうにコミュニケーションを取ればいいのか。未知のことに不安を抱くのは当然のことだ。もちろん、人類が残酷な失敗を重ねてきた上に成り立っている反省を現代に生きるものとして当然知っているべきだ、と考える向きもあるだろう。しかし、人知は遺伝しない。だから、誰にでも初めて人類の反省を知る瞬間がある。
 華の場合は、想が奈々と楽しく過ごしていたり、聴者の友人と再び関係を築き直していったり、母・律子と向き合えるようになっていく様子を見ることで、耳が聞こえなくなっても幸せに生きていけるし、聴者の母親とも共に生きていくことが出来るのだと気づくのだろう。それに気づいたときに素直に受け入れられる態度こそが人類の反省を生かすために重要なのではなかろうか。
 そもそも、華は劇中の当事者の前では傷付けるような言動をとっていない。一連の場面をみているのは律子と妹の萌、医者、そして我々視聴者だ。したがって、これらの場面では登場人物が傷ついたという反応が描かれないため、残酷さに気がつけるのは視聴者だけであり、視聴者に解釈がゆだねられた場面であるといえる。
 もちろん、視聴者の中にはろう者の方も中途失聴者の方も、大切な人の耳が聞こえないという方もいると思う。そうした方々の中には、あの場面に傷ついたと感じる方もいるかもしれない。しかし、「silent」は私のようなヘラヘラ生きてきた聴者であるような視聴者にも、あの場面が残酷な場面であると気がつけるように8話をかけて物語を紡いで来た。当事者を傷つけるためではなく、むしろそれが残酷なことで避けるべきことであると伝わるように、物語が語られてきた。
 つまり、第9話で描かれていなかった解決をもたらす場面は、第8話までの物語で想や奈々の姿を通してすでに語られていたのだ。

残酷さに気づくこと

 残酷なことに気づかせ、避けるべきだと伝えること、それはフィクションの大事な役割であると思う。
 アメリカの哲学者、リチャード・ローティーは「残酷さこそ最悪の行いである」という考えに依拠して、残酷さを避けるべきものとして論じた。残酷さを避けるために必要なのは相手に共感できることであり、共感する能力を養うために小説やドキュメンタリーなどの物語を読んだり見たり聞いたりすることが重要であると提唱した。「silent」はまさに残酷さに気づかせてくれるような物語として機能しているのではないだろうか。

 もちろん、春尾先生の言うようにそれでろう者のことを分かったような気になってはいけない。しかし、この物語を観て少しでも共感できるようになれるのなら、それは良いことだと私は思う。

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