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人間を選別する思想について :普遍的人権概念のダークサイド(清水利尚)

清水利尚
(博士(学術)、独立研究者、一般社団法人 社会科学総合研究機構 理事)

はじめに
現下のコロナ禍において、「人間を選別する」ということについて考えさせられる出来事があった。京都市のALS患者の女性からSNSで依頼を受けた2人の医師が薬物を投与して殺害した事件である。
容疑者のうちの1人の医師はSNSの匿名アカウントで「高齢者はみるからにゾンビ」「ドクターキリコになりたい」などと高齢者の殺害を肯定する「命の選別」を主張していた。もうひとりの医師は元厚労省の技官で、先の容疑者の医師とともに『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍を出版していた。

また、ちょうどこの嘱託殺人の事件が世間を賑わしていた時期に、相模原の障がい者施設の津久井やまゆり園で生じた大量殺傷事件から4年が経過した。
この事件の犯人の死刑囚は、「意思の疎通が取れないような重い障害者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」と主張していた。
この二つの出来事は、いわゆる「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」とに選別する優生思想に裏づけられたものであることはいうまでもあるまい。
ではなぜこのようなことが起きたのか。
これらの出来事は、優生思想と優勝劣敗の価値観で「有用な人間」と「有用でない人間」とを選別する新自由主義のイデオロギーとが共振することで生じたと考えることができるし、そのように指摘している論者もいる(1)。
しかしこれらを裏づけている優生思想は、新自由主義というごく最近浮上してきたイデオロギーよりも根が深く、これらの出来事は、新自由主義的なイデオロギーに因るものだと安易に考えることはできないのではないか。これが本稿のテーマである。
以下、「人間を選別する」価値観が近代社会の主軸に備わっているものであることを確認し、福祉国家体制と新自由主義のイデオロギーにおける「人間の選別」の変遷を追っていく。

1 近代の人権概念と「人間の選別」
近代社会においては自律的な個人のあらゆる権利が保障されている。すなわち「普遍的価値としての人権」が保障されている。この「普遍的価値としての人権」は、人間であるということに基づくことによる権利である。ではこの人間であるということはいかなることか。
すぐれて近代的な意味における人間とは、感性・悟性・理性や言語運用能力を有する存在者であり、自律的に振る舞うことのできる能力を有する存在者であると、ひとまず定義づけられよう。
こうした人間の「本質」を共有することのできる存在者に保障される権利が「普遍的価値としての人権」であるということができる。1980年代にアラン・ゲワースが提唱した「人権基礎づけ主義」は、このような人間の本質的な本性によって生存権を基礎づけようとする試みであった(2)。
人間は人間であるという事実のみでその権利が保障される。きわめて正しく美しく、且つ崇高な響きを持つ美辞麗句である。
しかしながら、このような「本質主義的」な人権概念は、「人間を選別する」優生思想や人種主義や差別的な言動に立ち向かっていくにはあまりに無力である。なぜか。
 リチャード・ローティは、1993年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中に開催されたオックスフォード・アムネスティ講義で、セルビアでジェノサイドを行なっている殺戮者は、自らが非人間的なことをしているのではなく、ただ本当の人間とニセの人間を区別しているだけだと指摘している。すなわち「普遍的価値としての人権」を有する人間と、それを持つに値しないニセの人間とを区別しているだけであると。
セルビア人は、ニセの人間に満ちた世界を「浄化」することによって、人類に貢献していると思い込んでいるという。この浄化という行為は、自分たちが完全に合理的な、すなわち「完全な人間」になることによってはじめて動物性を乗り越えることができるというロジックによって正当化されている。彼らが浄化しているのは、「人間の形をして歩き回っている動物」なのだから、と(Rorty 1993=1998: 138)。
 ローティはセルビアのジェノサイドの事例を通じて「人権基礎づけ主義」の問題を炙りだし、普遍的な人権概念とそれを育ててきたリベラリズムの陥穽を指摘している。
 カントの『道徳形而上学原論』を引っ張りだして「普遍的価値としての人権」や「人間の尊厳」などを持ちだしてきても、「私たち」に含まれない存在者に対しては、その道徳的な義務は意味をなさない。
「私たち」以外の存在者は常に入れ替え可能だ。ユダヤ人、有色人種、在日外国人、障がい者、性的マイノリティなど。「普遍的価値としての人権」を有する「完全な人間である我々」と「ニセの人間の奴ら」との間には恣意的な線引きが可能だ。
 実際、人権を重んじ、人間の尊厳を大切にする良識人であっても、その人にとっての「私たち」の範囲は常に揺らぎ、恣意的な線引きを行なってしまうことが多々ある。筆者も障がい者の人権に敏感な人が露骨な外国人憎悪を呈する場面に居合わせたことがある。
 たしかに「普遍的価値としての人権」や「人間の尊厳」は、一定の範囲の「私たち」、すなわち「家族」「企業」「共同体」「民族」「国家」などのなかの紐帯を強化するのには役に立つ。しかしその紐帯の強化と、「私たち」以外の人びとを「非人間化」して排除し、最悪の場合は殺戮を行なってしまうのとは表裏一体である(3)。
 このように、本質主義的な「普遍的価値としての人権」という私たちが享受している近代社会の理念ならびにリベラリズムの主軸となる原理は、「人間を選別する」価値観を孕んでしまっている。「人間は人間であるという事実のみでその権利が保障される」という美辞麗句に惑わされて、それを武器に優生思想や人種主義に抗おうと試みても、そもそもそれは無理な話である。それらの根っこは同じなのだから。

2 福祉国家における「人間の選別」
 もはや新自由主義のイデオロギーが浸透しきってしまった現代社会においては、福祉国家は「あらゆる人びとを包摂し、社会的統合を企てる」国家のあり方であるかのように思えるかもしれない。
福祉国家とは、マーシャルがいう「シティズンシップの拡大」を特徴とし、従来は市民として位置づけられていなかった、つまり排除されていた人びとの市民としての統合の推進に国家が積極的に役割を果たすようになったものである。さらには「普遍的価値としての人権」をあらゆる人びとに付与し、社会的に包摂していく国家のあり方である、と。
 たしかに福祉国家の目的には、上述のような「シティズンシップの拡大」があったが、国民全体の効率性の向上、人口全体の量と質の維持・改善もあった。そして後者の側面から、その目的に合致しない人びとの「排除」が正当化されるに至る。福祉国家の進展にともなうシティズンシップの拡大による社会統合は、社会の目的に合致しない「残滓」の排除と表裏一体の関係にあった。
 この福祉国家における「統合と排除」の論理の正当化で重要な役割を果たしたのが、「優生学」であった(山本 2009:71-72)。
 優生学は、ダーウィンの従弟であった人類学者・遺伝学者のゴルドンが「品種(race)」の改良を目的とする科学を提唱したことに端を発する。
ゴルドンらの優生主義者の考え方は以下のとおりである。
優生学的に優れた遺伝的資質は、中間層以上から供給されるが、この層の出生率は低下傾向にあり、相対的に高出生率の労働者層が人口に占める割合が増加している。こうした出生率の階級間格差は人口の質的変化をもたらすものである。それゆえ、それは縮小ないしは逆転されなければならない(ibid.: 74)。優生主義者たちはこのように主張した。
 このような考え方を提唱した優生学は、方法論として「積極的優生」と「消極的優生」の二つに大別され、政策として展開された。
前者の「積極的優生」政策は、優生学的に望ましい人口の増殖を促進するための施策を指し、中間層以上の出産・育児を取り巻く環境を完全することが原則とされた。また後者の「消極的優生」政策は、家計調査等をつうじて優生学的に望ましくない人口を特定し、その層の増殖を制限することを指す(ibid.: 74)。
このように劣っているとみなされた遺伝子を持つ者の人口は減らしていくべきだとする優生学によって正当化された福祉国家は、その「人間の選別」の原理を孕んだまま展開してく。
たとえば、福祉国家の大御所的存在のスウェーデンは、1930年代から1970年代まで、特定の精神病患者や身体障害者への強制的な不妊手術を本人や親の同意なしに行なうことのできる法律が存在していた。つまり、「誰が子供を産むに値するか」「誰が生まれるに値するか」「誰が生きるに値するか」という「人間の選別」を行なうことで、スウェーデンの福祉国家は成立していた(市野川 1999)。
また戦後日本においても「不良な子孫の出生を防止する」と謳った旧優生保護法のもとで、それが母体保護法に改正される1996年まで、2万4991人もの人びとに強制不妊手術が施されていた。
このように「シティズンシップの拡大」による多様な人びとの包摂であるかのようにみえる福祉国家は、「人間の選別」をその原理に据えて展開してきたのであった。すなわち福祉国家において「普遍的価値としての人権」が付与された「私たち」は、国家の目的にそぐわない「残余」たる人びとを排除することで、「私たち」の紐帯を強化していたのである。

3 新自由主義のイデオロギーと優生思想
3−1 「人間の選別」の可視化
 経済成長していくという楽観的な見通しが持てる環境においては、「普遍的価値としての人権」が保障されている「私たち」の外縁は、外へ外へと広がっていく。たとえば失業や病気などによって困窮している人びとについても、「私たち」もそうなりうるという想像力のもとで「私たち」のメンバーとして認め、再配分がなされる。また、まだ誕生していない生命、すなわち未来の世代にまで「普遍的価値としての人権」は拡大し得る。
 しかし1972年のローマクラブの「成長の限界」以降、世界各国で福祉国家体制に陰りが見え始め、「小さな政府」「規制緩和」「民営化」を旗印とする新自由主義のイデオロギーが台頭してくると、「私たち」の外縁は、内へ内へと切り詰められていく。そして「私たち」が、これ以上分割できない単位(in-dividual)、すなわち「個人」にまで切り詰められていく(4)。
 新自由主義のイデオロギーのもとでの「個人」は、市場の価値に求められるまま、自らを有用な商品として自己研鑽していく。仮に自らの商品化に失敗したとしてもそれは自己責任として片付けられる。
 こうした新自由主義のイデオロギーのもとでは、商品としての市場価値が高い人間に「普遍的価値としての人権」が保障される。そして商品としての価値が低い人間には「普遍的価値としての人権」は保障されず、廃棄されてしまう。それも自己責任として。
 したがって有用な商品として市場価値のある人間か否かが、すなわち「生きるに値する人間」か「生きるに値しない人間」の選別の基準となってしまっている。
 こうした状況のもとで、意思表示できない障害者を「心失者」と呼び、「国債(借金)を使い続け、生産能力の無い者を支援することはできません」と主張し、知的障がい者施設の入所者たち45人を殺傷する者がでてきたり、延命治療の高齢者を「ゾンビ」と呼び、嘱託殺人に加担する医師がでてきてしまうのはごく自然の流れであるかのように理解できてしまうのではないか。
 しかしこれは決して新自由主義のイデオロギーが原因なのではない。先に述べたとおり、「生きるに値する人間か否か」の人間を選別する価値観は、そもそも近代社会の理念ならびにリベラリズムの原理の主軸たる「普遍的価値としての人権」に埋め込まれているものである。優生学と新自由主義のイデオロギーの相性が良いにせよ、もともと「普遍的価値としての人権」に埋め込まれた「人間の選別」の価値観が、新自由主義のイデオロギーのもとでわかりやすい形で白日に晒されたにすぎない。

3−2 新自由主義のイデオロギーと「リベラルな優生学」
 しかし事態はさらに深刻である。新自由主義のイデオロギーが浸透している現代社会において、優生思想は「リベラル優生学」として変貌を遂げて台頭してきている。
 リベラル優生学とは、デザイナーズベイビーのように親が自分の受精卵に特定の遺伝子を挿入することで、子供の能力を増強しようとする「積極的優生学」の試みである。
 従来の優生学は、国家がある特定の価値を擁護し、特定の人種あるいは特定の身体的特徴を持つ人びとだけが子供を持つように主張し、その価値にあわない人間に断種を強制するなどしていた。しかしリベラル優生学は、それぞれの親に生殖の自由を認め、親の意向に沿った特徴を備えた子供が産まれるように遺伝子工学を用いることは正しいと主張する(稲村 2013: 47)。
 リベラル優生学は、ユルゲン・ハーバーマスやマイケル・サンデルなどによって批判されている(5)。紙幅の都合もあり、詳細について触れることはできないが、ハーバーマスによる批判について簡単に触れておこう。
 ハーバーマスは、近代の自由民主主義は、対等な人間関係すなわち「コミュニケーション的関係」を基礎にしている。しかし受精卵に遺伝子を挿入する試みは、このコミュニケーション的関係を破壊し、人格同士の従属関係を固定化してしまう。
 そこでハーバーマスは遺伝的介入を子供の人格の「プログラム化」として捉え、子供が成長していく過程で獲得していく自由や平等を侵害するものとして捉えている(ibid.: 50-51, Harbermas 2003=2004: 54-56, 63-64)。
 ハーバーマスの批判を素朴に読み解くと、親の意向とはあくまでも「現時点での意向」にすぎず、たとえばそれが新自由主義のイデオロギーに適った能力であったとしても、時代とともに社会もイデオロギーも変容するのはいうまでもない。それゆえ現時点での価値観を固定的に子供の遺伝子に埋め込んでしまい、親と子供同士の従属関係を固定してしまい、将来子供が獲得していくはずの自由を侵害してしまう。
 また、リベラル優生学の擁護者が、いくら従来の優生学との違いを強調しても、親の意向に沿うか沿わないかの価値基準は「生きるに値する人間」か「生きるに値しない人間」の二項対立の域をでるものではなく、「人間の選別」の価値観から脱することはできていない(6)。

結論 人間を選別する思想に抗うために
 「人間を選別する」価値観は、私たちが享受している近代社会の理念ならびにリベラリズムの主軸となる原理にそもそも埋め込まれている。これが本稿で主張してきたテーマである。
「普遍的価値としての人権」を付与された「私たち」は、常に人間を選別してしまう可能性を抱えており、「私たち」以外の人びとを「非人間化」する「加害者」となりうる可能性がある。ではどうすればいいのか。
 ローティは、「人権基礎づけ主義」に抗うためには「感情教育( sentimental education)」が必要だと提起する。ローティは、「人間と非人間すなわち動物を区別しているのは何か」という問いに対して、「人間は知ることができるが、他の動物は感じることができるだけだ」と答えるのをやめるのがよいという。そのかわりに、「人間は他の動物よりもはるかによく感情を理解しあうことができる」のように言い換えるとよいといっている。そうすることで自分たちのエネルギーを感情の操作に、つまり感情教育に注ぐことができ、さまざまな種類の人間にお互い知り合うチャンスが与えられ、自分たちと違う人間をニセの人間と考える傾向に歯止めをかけることができるといっている(7)(Rorty 1993-1998: 150)。
 またローティの主著『偶然・アイロニー・連帯』においては、「私たち」のような、何らかの同一性や共有から発する連帯や、カント的な理性に依拠した道徳感情から発する連帯でもなく、他者に対する身体的・心的苦痛や辱めを察知する感性を疑い、また現在の社会の制度的な編成がそのような苦痛や辱めに適切に対応しているかどうかを疑い、他者の生の具体的な細部との想像上の同一化によって感性を研ぎ澄ませることで連帯の環を拡張していくことが提起されている(Rorty 1989=2000: 395-415)。
要するに、想像力と感性・感情を使って、他者の痛みや苦しみを理解することが大切だということである。そしてそのような他者理解の環を拡張していくべきだと、ローティはいっている。
 たしかに想像力と感性・感情を使った他者の痛みや苦しみへの理解には、本質主義は要しない。また、嘱託殺人に加担した医師たちも、障がい者施設の入居者たち45人を殺傷した死刑囚も、こうした想像力と感性・感情を使った痛みと苦しみへの理解があれば、あれらのような蛮行には至らなかった可能性もあるのではないか。
 人間を選別してしまう可能性を抱えてしまった、加害者となりうる「原罪」を背負った私たちにとって必要なのは、この他者の痛みや苦しみへの想像力と感性・感情を使用した理解である。

【注】
(1) この嘱託殺人について、優生思想と新自由主義のイデオロギーとの共振については(藤崎 2020)が論じている。その他、優生思想と新自由主義の相性の良さについては、様々な論者が指摘している。
(2) (辻 2016:21)によると、ゲワースは「われわれは、人権が、すべての人間がただ人間である限り有する権利だということを、定義からして当然に真だと想定しているかもしれない。しかし、そのような権利など存在するのか(Gewirth 1982: 41)」と問い、「人権が存在すると言えるためには、すべての人間が人間として権利をもち、したがってそれと相関する義務をもつことを正当化する妥当な道徳的基準ないし原理が存在しなければならない(Gewirth 1982: 42)」と主張する。
(3) 優生思想のみならず、人種主義やヘイトスピーチなどの差別的言動もこの論理に裏打ちされているといえよう。本稿では触れなかったが、アメリカで一時期、新型コロナウイルス以上に大きな問題とされていた黒人の「非人間化」を剥き出しにした白人警察官の「人間を人間と思わない」暴力によってジェージ・フロイド氏が殺害された事件も同様の論理によって引き起こされたといえる。
(4) 「私たち」が「個人」へと切り詰められていく過程で、「私たち」の領域が「人種」や「民族」などといった古臭くきな臭い価値観を帯びた本質主義的な領域に変容することも見逃すことはできない。
(5) (Habermas 2001=2004)ならびに(Sandel 2007=2010)参照。
(6) リベラル優生学がそれぞれの親の生殖の自由を認める点で従来の優生学と一線を画すると主張したところで、出生前診断による「産まない判断」、つまり「産まれるに値しない」生命と判断することを正当化するロジックであることには変わらない。
(7) (朱 2017: 58-59)によると感情教育とは具体的には物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は、他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯を育む。このように育まれる「共感」にそれ以上の根拠はなく、「理性」を本質的に共有し、合理的であるから共感可能になるわけではない。

【参考文献】
Habermas, J. (2001) Die Zunkunft der menschlichen Natur. Auf dem Weg zu einer Liberalen Eugenik? Suhrkamp. (『人間の将来とバイオエシックス』三島憲一訳,法政大学出版局,2004年)
Gewirth, A. (1982) Human Rights: Essays on Justification and Application, Chicago: University of Chicago Press.
Rorty, R. (1993) “Human Rights, Rationality, and Sentimentality” in Shute and Hurley ed. On Human Right: The Oxford Amnesty Lectures1993, Basic Books., pp.111-134. (「人権、理性、感情」、『人権について』、中島・松田訳、みすず書房、1998年)
―― (1989) Contingency, irony, and solidarity. Cambridge. (『偶然性・アイロニー・連帯』齋藤純一、山岡龍一、大川正彦訳、岩波書店、2000年)
Sandel, M. (2007) The Case against Perfection, Harvard University Press. (『完全な人間を目指さなくてもよい理由―遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』林芳紀、伊吹友秀訳、ナカニシヤ出版、2010年)
市野川容孝. (1999). 福祉国家の優生学--スウェーデンの強制不妊手術と日本. 世界, (661), 167-176.
稲村一隆. (2013). リベラル優生学の問題点: 子供の特質を高めるために遺伝子工学を用いることについて. 生命倫理, 23(1), 46-53.
朱喜哲. (2017). ジェノサイドに抗するための, R. ローティ 「感情教育」 論再考. 待兼山論叢. 哲学篇, 51, 53-68.
辻健太. (2016). 人間本性による生存権の基礎づけは可能か: アラン・ ゲワースの道徳的人権論の意義と限界. 早稲田政治公法研究= The Waseda study of politics and public law, (112), 19-38.
藤崎剛人. (2020). エリート医師が染まった「命の選別」イデオロギー。その背景にある、我々が超克すべき思想. https://hbol.jp/224492(2020年8月6日閲覧)
山本卓. (2009). 1930-40年代の英国優生学協会とティトマス: 福祉国家における統合と排除. 思想, (1022), 71-114.

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