実熊 秀史

2022年3月26日に投稿を開始してから、昨日(2023年9月26日)までで550日の…

実熊 秀史

2022年3月26日に投稿を開始してから、昨日(2023年9月26日)までで550日の連続投稿となりました。飽きっぽい性格なので、1年半も続いているものだと、我ながら、驚いています。主に読書メモを書いてきましたが、今後は、これに拘らずに、種々のことを投稿していくつもりです。

最近の記事

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ブッダの「無記」について

哲学者苫野一徳氏がブッダの「無記」についてVoicyで語っていた。 清水俊史著『ブッダという男』という本を読んだことで、新たな学びがあったと言うのです。 通説では、「無記」とは、形而上学的な問いに対してはブッダは答えないというものです。 この通説に清水氏は異論を唱えた。 ブッダは、全てのことを知っていることになっているので、不可知論者であるわけがないというのです。 たとえば、仏教徒以外の異教徒の人たちが、「私は生まれかわるのか?」という問いに対しては答えないというこ

    • ポール・リクール著『記憶・歴史・忘却』について(1)

      今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。 記憶という作業 一般に、記憶は過去から現在への時間的連続を成り立たせ、記憶する 自己を保持する営みとみなされている。 しかし、このことを一体どのようにすれば確証できるのか? リクールはそこに原理的なアポリア(行き詰まり)を見ている。 実際には、アポリアであるはずの記憶を実践している。 リクールは、過ぎ去ってしまったものを「もはやない」と「かってあった」こと

      • 「物語的自己同一性」について

        今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。 リクールは、『時間と物語』で結論として、「物語的自己同一性」の概念を提示した。 今回は、それが、どういうものかを見ることにします。 リクールの第一の論点 自己同一性を同一性と自己性に区別したことである。 ふつう自己同一性というのは何かが「同一」であることを、たとえば、花をさして、「これは何か」と尋ねると、「これは花です」というように答えることができるので、「

        • 物語と時間 (続)

          今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。 前回は、時間性のアポリア(行き詰まり)について説明されるわけではないが、時間が物語の筋立てとして形象化されることによってわれわれが自己と世界を生きるための図式になるというところまで記しました。 今回は、リクール理解のキーワードとなる「行為し受苦する自己」、「フィクション物語と歴史物語」、「物語的自己同一性」を追記します。 行為し受苦する自己 SNSなどで何らか

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        ブッダの「無記」について

          700日連続投稿

          2022年3月26日から投稿を始め、昨日で700日連続となりました。 「継続は力なり」という言葉に強迫神経症的に反応した結果のような気がしています。 当初から連続を意識していたわけではないが、いつの日からそうなっていました。 投稿内容は、読書メモ、読書感想文、読書要約と、読書関連が主で、時事関連、介護関連、日常の出来事などを記述してきました。 時々、内面にあるものを表現したいという思いで、投稿したことはありますが、貧弱な内面の引き出しからでは、たちまち枯渇して、途絶え

          700日連続投稿

          物語と時間

          放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。 ポール・リクールという哲学者の名は、本書で初めて知りました。本書にはフーコーの解説も掲載されていますが、彼よりも一世代上の年長者です。 リクールの凄いところは、87歳になって大著『記憶・歴史・忘却』を2000年に刊行したということです。私のような77歳の老人には希望の星ともいえる人です。2005年に92歳で永眠されました。 介護界に属したことがあるものとしては、87歳と

          物語と時間

          ニーチェの「ルサンチマン史観」とハイデガーの「存在忘却史観」

          後期ハイデガーの反ーヨーロッパ形而上学主義、反ー人間主義(反ーヒューマニズム)、反ー近代技術、反ー理性主義は、「頽落」のモチーフから導かれた、と竹田青嗣は主張する。 ハイデガーは「存在忘却」に由来する現代ヨーロッパのニヒリズムについて語っているが、そもそも「ヨーロッパのニヒリズム」をはじめに宣言したのはニーチェだ、と述べる。 これがニーチェの ヨーロッパ形而上学批判の大筋である。 一方、後期ハイデガーの形而上学批判については下記の通りです。 〈「イデア」の思考が「ピュ

          ニーチェの「ルサンチマン史観」とハイデガーの「存在忘却史観」

          無意識の本質洞察

          外部的な世界構成(信憑構成)と内部的な信憑構成は本質構造に違いがある。 外部については、直接的な周囲世界、日常世界、そして自然世界の存在現実性と客観性は、われわれの物理ー生理的身体との因果連関的相関性において、また他者との相互確証によって、たえざる間主観的な妥当性が生じている。 しかし、内部の信憑構成については、他者の心、人格、無意識を物理的連関によっては検証しえず、第一に他者身体(言葉を含む)の表現性を介して、第二に、相互的、間主観的関係行為による信憑形成においてのみそ

          無意識の本質洞察

          ネット上での断捨離

          昨晩は、ニコニコ生放送有料動画、note有料記事、Kindle Unlimitedなどの会員登録を、バッサバッサと解約した。 飽きたからではなくて、わずかな年金でこうしたものに拘ることはないという思いからです。 note記事については、月3回ぐらいの配信だったのが、このところ週4回と大幅に増えていて、しかも評論家が投稿している良質な記事だったので、これだけでも残そうかとかなり悩んだ。 それでも、中途半端でどうするとばかりに、エイヤーと切り捨てた。 その爽快さと少しばか

          ネット上での断捨離

          「不可視域」について

          危険、不安、不都合などの原因が物理的因果に連関で捉えられうるものであれば、その対処法を確定できる。しかしそれが「心的な領域」(不可視域)におけるものであるならば、その対処を物理的秩序の因果性に求めることはできない。 それは、無意識の真の源泉や構造、その病的な現象の本体的原因は、原理的に心的な「不可視域」に属し、客観的に連関としては解明されえないからである。 われわれは、この「不可視域」としての「心的な領域」については、ただそれが生みだす現象だけを認識し了解することができる

          「不可視域」について

          「超自我」について

          「超自我」は、去勢勢力としての父親によって子どもの頃からの命令やしつけを受け続けてきたことによって形成されるものである、というフロイトの仮説である。 超自我は自我に対してサディズム(攻撃性)の力を振るう。この攻撃性は、超自我に潜む死の欲動が生の欲動から解離して独立的に振る舞うことに由来する。 この超自我仮説は検証されえないが、われわれは、フロイトが超自我と呼ぶものについては思い当たる。 われ欲すを超えて私に力をおよぼす「ねばならぬ」の強制力をもたらすものを、日常的な心的

          「超自我」について

          西田幾多郎の読書法について

          西田幾多郎氏は、初めてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、30歳過ぎてからだったが、よく分からなかったそうであり、50歳近くになってから、ようやく自分に生きた読み物となった、と告げている。 書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火が打つが如く、一時に全体が明となる、と言うのである。 西田は、カントやヘーゲルといった著名な哲学者の全集というものを購入したことはないと述べている。 決して、この方法を人に薦めるわけでは

          西田幾多郎の読書法について

          「恋人はゴースト」について

          昨晩はNetflixを久しぶりに観た。「ブラックリスト」や「メンタリスト」などといったFBIやCIAといったスパイ、アクション、サスペンス物を見続けてきて、少し食傷気味となっていた。 それで、ドラマシリーズではなく、一晩で最後まで観ることのできるカテゴリーとして映画を選んだ。その結果、「恋人はゴースト」というヘンテコリンな題名が目に留まったので、これにした。 果たして、どんなスピリチュアル系なものとなるのやらと、少しおっかなびっくりな気持ちで、筋を追っかけていた。 研修

          「恋人はゴースト」について

          不安の本質について

          ハイデガーは、すべての不安の根源には死の不安があるという仮説を説いた。これに対して、フロイトの仮説は「去勢不安」が不安の根源であるとした。 ハイデガーによれば、死の不安を打ち消したいがために、死から逃れるという行為によって人間を頽落へと導くというのである。 一方、フロイトは、不安はその深層性において自覚されない超自我の規制をかけて、人間の自由を束縛するというものである。 竹田青嗣は、この対立する宗教教義のごときの仮説は、どちらもその妥当性を検証することはできない、と断じ

          不安の本質について

          自我と無意識

          フロイトにおいては、人間の自我(意識)は、「快楽原則」と「現実原則」の調停役となる。 世の通説となっている、エディプス・コンプレックスの確たる証拠は見出せていない、と竹田青嗣氏は言う。 フロイトによれば、人間の自我は、動物の「意識」が生理的身体の欲求のままに行動することと同様に、関係の中で発生的に形成された無意識から生じる諸々の要求にそのまま応じると見なしている。 これに対してヘーゲルでは、人間の意識は「自己意識」であり、動物のように生理的欲求からくる要求に優先して発現

          自我と無意識

          哲学の流れ

          ユーチューバーが配信している番組のニーチェの回では、哲学の大きな流れとして、下図のように4つの主義に分けていた。 大きな分類なので、この区分けで問題ないと考えても良いのでしょうが、少し違和感がある。 まず、この分類には、合理主義と対立していたイギリス経験主義(ホッブス、ロック、ヒュームたち)が脱落している。だが、同じく2年前の配信番組レヴィ・ストロースの説明では、合理主義と経験主義との論争に言及しているので、問題はない。 ニーチェについては、実存主義としても良いとは思う

          哲学の流れ