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ハウス・ネーションとジェネレーションX

ハウス・ネーションとジェネレーションX

92年8月、ダグラス・クープランドの小説「ジェネレーションX」の翻訳本が、ようやく日本の書店の店頭に並んだ。この本は、その前年の91年の春に米国では出版されていて、当時(一部のアメリカ文学マニアの間では)大変な話題になっていた一冊であった。本のタイトルの通り、これはX世代について書かれた小説であり、この世代の若者たち(60年代から70年代半ばに生まれた世代。日本では80年代に新人類などと呼ばれていた世代を一部含む)が、目まぐるしく移り変わり加速してゆく社会と文化の動きの渦中で、消費経済という巨大な洗濯乾燥機に放り込まれて漂白と脱水を繰り返され続け、若くして人生に疲弊し白けてゆく生き様(死に様)が、独特のクールかつドライな語り口で、ややシニカルなまでにポップなタッチで書き上げられた佳作であった。個人的にも、翻訳本を読み始めてすぐに夢中になった。買ったその日の夜に一気に読み終えてしまったことを記憶している(A5版の二段組みで二百頁足らずという薄さの本であったが)。それぐらいに食いつかずにはいられない実に興味深い内容で、次々と移り変わるエピソードをおもしろく読ませてしまう一冊であった。まだバブルの熱気が長く尾を引いていた当時の日本で生活をしていたものの感覚としては、この本に描かれているX世代とは自分よりも少しだけ上の世代のことであるように感じられた。80年代には自分も新人類と呼ばれる世代の一部であるように感じられていたが、クープランドの書くX世代とは新人類と呼ばれる世代のなかでも80年代の新人類世代のより中核部分を形成していた世代のことのように感じられたのである。実際、新人類という言葉がメディアを賑わせるようになっていた頃、わたしはまだ小学校の高学年や中学生であったので、そこで新人類と呼ばれている世代が新しい感覚で活動し活躍している様子を傍目に(そのおもしろそうな動きの外側から)眺めているだけであった。そこで新人類と呼ばれていたような世代が、それから約10年ほどが経過して(長い)モラトリアム期を終えて実社会に出て現実の大きな壁にぶち当たって(クールに白けた)X世代と成り果てているのだと「ジェネレーションX」を読んで感じたのである。わたしとしては、ちょっとだけそうしたX世代の感覚も想像して理解することもできたし、そこに片足だけ突っ込んで一応は属しているような気もしていたが、より大きな世代観をもってしてとらえてみるとX世代の抱える問題や社会との軋轢を実感をもって共有・共感するには、決定的に世代的にいってその時代の動きに間に合っておらず完全に乗り損ねてしまっているようにも感じられたのである(そして、毎日のように渋谷の街にいたわたしの日常は、パームスプリングスのトレーラーハウスでのX世代の若者たちの暮らしと比較すると、まだそれほどカサカサに乾いてはいなかったし完全に白けきってもいなかったのである)。

X世代の大半は、ハウス・ミュージックが全盛期にあった時代を10代後半から20代(もしくは30代前半)で過ごした年代だと考えられる。だが、オリジナルなハウスのムーヴメントは、そうしたX世代の若者が属していた社会や世界の外縁部で起きたものであった。その後、英国と欧州を中心にアシッド・ハウスの大ブームが起こって、ハウスが新しい時代のダンス・サウンドとして空前の盛り上がりをみせ始めてきたところで、多くの空疎なX世代の若者たちがダンスフロアに引きずり込まれ、巨大な世界規模のムーヴメントを形成してゆくことになる。

ダグラス・クープランドは、X世代のひとつ下の若い世代のことをグローバル・ティーンズと名付けて分類している。このティーンズたちが、クラブ・ミュージックとして世界的なの広がりをみせたテクノ・サウンドや、90年代初頭からの若いレイヴ・カルチャーの勃興を中心になって支えていた世代である。X世代よりも少し下の世代とされるグローバル・ティーンズではあったが、わたしとしてはX世代だけでなく、こちらの世代にもぴったりと属せていないように感じられていた。基本的にハウスのダンスフロアにいたわたしには、ブレイクビート・テクノやレイヴといった音楽や文化の盛り上がりは、とても新しい若々しいタイプの音楽ムーヴメントで、世代的にも自分より少し下の世代が中心となっているように感じられたのである。一般的な世代の区分によると、X世代に続いて時代の動きの中心に乗り込んでくるのはY世代である。これは、70年代半ばから80年代に生まれた世代と規定されている。クープランドがグローバル・ティーンズと名付けた世代は、このY世代とほぼ同一であると考えられる。

それぞれの世代は同じ時代に存在していたが、少しばかり生まれた年代が異なっていたことで、微妙にすれ違っていた。そのほんの少しの違いゆえに、それぞれの世代が時代の流れの中で重なったり入り組んでいることも少なくはない。しかし、同じ時代を生きてはいても、そのほんの少しばかりの年代の違いが時間と場所を隔てて、それぞれの世代の生活世界を分けていたのである。個人的には、X世代のど真ん中に陣取るには、少しばかり遅く生まれきてしまったように感じる。だが、レイヴ・カルチャーが隆盛する以前に、ウェアハウス・パーティの文化の香りが残るアンダーグラウンドなハウスのムーヴメントに潜り込み、当時の主流であったテクノ(ニュー・ビート)のシーンに傍流として隣接していたハウスのダンスフロアでグローバル・ティーンズに合流してもいたのだ。その後のインターネットの革命が、全てを(均質に/均して)変えてしまうまでの十年弱の期間、それぞれの世代は非常に近い位置でそれぞれに独立した島宇宙のように存在していた。

X世代は、激動の60年代から70年代へと時代が移行してゆく中で世界に登場し、そのあらゆるものが終わった世界で成長してきた、消極的なニヒリズムとルサンチマンで満たされた戦争を知らない世代の若者の変異体である。だが、その先天的な消極性ゆえに上の世代(ベビーブーマー世代/ヒッピー世代)から山積されたまんま降り掛かってくる諸問題や軋轢を(率先して)継承し引き摺っているところがある。そして、上の世代が新たに次々と生み出す問題までをも律儀に背負い込んでしまうのである。よって、それまで主流とされてきたものに背を向けて、そこからドロップアウトし、鬱屈して屈折し、ぼんやりと焦点を欠いた、気力の乏しい世代を形成するまでにもなっている。そんな彼らにとっては、(まだ少しは幸福な時間を過ごせていた)学生時代に貪るように聴いたCMJチャートの常連であるR.E.M.やザ・スミスの音楽が、唯一の心の拠り所となっている。その空疎で空虚な心にも響くR.E.M.の「Losing My Religion」(91年)は、深い共感を呼び覚ますX世代を象徴する歌である。信仰を失ったとこぼしながらも、逃げようとしても決して逃げ切れない状況に戸惑いながら、ただそこに沈潜してゆく。X世代ほど、複雑に入り組んだ社会と世界に絡めとられて、生きることをこじらせせて様々な炎症を起こしてしまった世代もいないだろう。しかし、そんな落ち込むだけ落ち込み、世界をふらふらと漂流していたものの中に、生きづらい社会から少し外れた場所に自分と同じような社会の漂流者の姿を見いだすものがいた。それが小説「ジェネレーションX」に描かれていた、全てを投げ出してカリフォルニア州パーム・スプリングスのトレーラーハウスに逃避した若者たちであり、それと同じ時代に週末のナイトクラブのゲイ・パーティで強烈なビートの反復に身を委ねる快楽と恍惚に開眼したゲイ・ボーイズや即席のノマド・ダンサーたちであったのだろう。地下の狭く薄暗いダンスフロアは、X世代の抱え込んだニヒリズムを軽やかにダンスすることで能動的な力能への意思の方向へと転換させうる開放感が充満した場所でもあった。

グローバル・ティーンズは、さらにそこから先に進んだ世代の変異体の変異体である。とっくの昔に信仰は失われていて神の軛から解放されているため、もはやそこには信ずるに値するものなど何もない。どんな問題に対しても答えはそう簡単には見つからない。それならば、それはそのままうっちゃって保留しておけばよい。信じられるのは、目の前にある科学的な法則や物質だけである。その物質を通じて、所有し共有できる物をめぐって、同世代の仲間たちと直感的に通じ合う。それまでの世代が抱えていた諸問題や軋轢を軽々と飛び越えて、全世界/全地球規模でつながっている世代なのだ。ユルく広くつながることによって特異かつ個別なケースを軽々と飛び越えてしまう。自分と同じ世代に属するものとのつながりの感覚により軋轢や摩擦が無化される(無化できると思い込める)。電子音の組み合わせによって構築された(人間味の薄い)テクノのサウンドは、それまでの言語表現の枠を超越した新世代にとってのグローバルな共通言語となった。彼らは、その次にくるインターネット時代の(本格的で/生得的な/つながろうとすることなくつながっている)(全般的な)グローバル・ティーンズ世代(あらゆる人がグローバル・ティーンズ化する世代/エレクトロニック・ダンス・ミュージック時代)よりも少しばかり先がけて登場した、次世代の先触れとして出現した世代でもあったのである。

ハウスは、加速化されたグローバルな文化と時代の動きの急激な経済的合理主義化への変化の波が、社会の全般にのしかかってくるにつれて、その重力に逆らえずにゆっくりと下降していった。そして、テクノは、全てがデジタル化されてゆく新たな時代との親和性を存分に発揮して、日常において様々なメディアから当たり前に響出するサウンドとなっていったのである(機械的な音やビートに共振し、それを前言語的な共通言語としてつながる感覚を分かち合える世代の音楽として)。今という時代にあった/あわせた音の形象を追い続けることで生き残ったテクノは、今ではより広範な括りのうちに一元化されたEDMと名付けられるものとなって、インターネット時代のグローバル・ティーンズと呼べるであろう(より広範な)テクノ世代の生活のバックグラウンド・ミュージックとして機能している。その現代的なエレクトロニック・サウンドの中に、パーティ感覚や催淫性、酩酊感、浮遊感などを醸し出すハウスの残り香だけが(大昔から受け継がれてきたダンス音楽のネタのひとつとして)巧みに取り込まれているだけである。

ダンス音楽は、ダンスフロアにおいての有用なる機能性のみを追求していった結果、ミニマルなビートの連続と反復フレーズの合奏によって構成される純粋にダンスのためのサウンドへと近づいていった。すっきりとしていて直感的に分かりやすく、くっきりとリズムが鮮明に鳴っていて踊りやすく、構成が規則的かつ単調で過剰なまでに情感に富んだ起伏をミニマルな反復の展開の中に練り込んであるために非常に盛り上がりやすい。そうしたサウンドは、シンプルで空間的なテクノから、ハードかつ大仰でより大衆的なレイヴ、そしてダンス音楽の記号化とデータ化(データベース化)の最先鋭としてのEDMへという流れの中で、多くの人が自由かつ平等にパーティを楽しむための配慮として軋轢や摩擦や取っ掛かりや突っかかりといった部分を可能な限り低減させていったのである。X世代やそれに続く原初のグローバル・ティーンズが通り過ぎていった後に、より動物化してポストモダンな領域に近づいた人種としてEDMの世代(XやYよりも先に進んだZ世代といわれる)は登場した。世代が音楽を(無意識のうちに)欲望し、音楽が世代を育む。そのいびつな構造の似非ミニマルなダンス・サウンドは、より空疎に軽く、時代精神が希薄化した時代に小さく細かくうごめくウィルスの塊ように壮大かつ高らかに鳴り響いているのである。

こうしてハウスやテクノから進化を遂げていったEDMは、そのサウンドをより研ぎすまし先鋭化させたものへと向上してゆく過程で、急速に音的な道具化への傾向を強めていった。構成と構造が単純な使い回しのミニマリズムに近づいてゆくことで、そこに容易に道具化へと向かう筋道が次々とできてくるのである。そこでは音楽が、より低次な思考の道具となり、どんな感情や思考を表現するのにも使える便利な常套句的な素材となり、あまり思考を伴わない感情や気分にまでフィットするように勝手に二次/三次の創作がなされてゆく。ミニマルであるがゆえに、それはどのような解釈をも可能にするのだ。どんな音楽もサウンドも、理解の範疇を越えたものではなくなってゆく。音楽からミステリアスな要素も謎として残されていた部分も一切が取り払われてしまう。全てが非常に分かりやすく容易に理解できるものとなるから、それを道具として用いてどんな場面でもどんな状況でも誰にでも使い倒すことができるようになる。こうして、人間にとっての単なる道具となり、使い勝手のよい道具としてしか機能らしきものをもたなくなったとき、音楽は脱音楽化した次元にまで突き抜けてしまうことになるのだろう。

しかしながら、このような音楽の脱音楽化の傾向は今に始まったことではない。それが広く一般的なレヴェルで開始されたのは、70年代後半の音楽状況においてであった。これはジャック・デリダの脱構築の思想の概念が文学批評だけでなくポピュラー音楽にも応用されることになったことと強く関連しているのかもしれない。この時期に、既存のロックを打ち壊すものとしてパンクが出現し、ディスコなどのダンス・ミュージックのパロディやコラージュやシュミラクルとしてのハウスが発生している。こうした過去のものとは地続きでありながら見た目には断絶した斬新な動きが、にわかに沸き起こってきたあたりから、音楽の脱音楽化は始まっていたのである。そして、その動きがある種の極限にまで極まったものが、ただ感覚と感情と気分に訴えるだけのビートとフレーズだけしかもたないミニマルなエレクトロニック・ダンス・ミュージックというパーティにおいての機能性を追求しただけの電子サウンドなのである。21世紀の初頭、このEDMのサウンドは、脱音楽化された音楽の様式としてひとつの完成形にまで到達したといってもよいのではなかろうか。

「現在の「ポスト〈哲学〉的文化」は、哲学的文化の内部における対話や議論を通じて到達されたのではなく、端的に文化のグローバル化と、知的世界への市場原理の浸透によって、否応なくもたらされた「帰結」だからである」

リチャード・ローティ『プラグマティズムの帰結』(624頁)文庫版解説、吉岡洋

文化がグローバル化し、その哲学的で文化的な知的思考の世界にまで市場原理が浸透してゆくことによって、形骸化し空洞化したポスト哲学的な文化というものが出現することになる。ハウスの文化とハウスの哲学についても、その音楽がダンス音楽やダンス文化としてグローバル化し、世界規模で当たり前にプレイされるクラブ・サウンドなっていったことで例外なくそうした帰結に至ることとなったように思われてならない。

誰にでもちょうどよく使えるものにまで薄められて漂白され、商品として流通しやすいものへのマイナー・チェンジがなされてゆく中で、X世代が(ダンスフロアの内と外で)引き摺り抱え込んでしまっていた多くの重(苦し)さや面倒臭さは(市場原理に絡めとられるように)切り捨てられてゆくことになった(意識的に無化されたと考えるべきであろうか)。そして、その中においてまだ使えそうなものと合理的に判断されたものだけが、命脈を保って後の時代の動きへと都合よく取り込まれていった。つまり、そこで必要とされないようなものは、次々と前時代のゴミ屑と化すだけであったということである。

歴史の天使が必死に試みているように、そうした屑は拾い上げられねばならないものなのではなかろうか。その時代の敗者として屑化されてしまったものの中には、ここにあるイマ(それを屑化したイマ)とは違う、オルタナティヴな現在を現出させたかもしれぬ可能性が隠されているのかもしれないのだから。

時代遅れの歴史の屑になってしまったハウスは、打ち捨てられた屑らしく手厚く救済されなくてはならない。時代の敗者であり死者となったハウスには、時代の激動の中で無惨にも却下されてしまったユートピアの契機を再発見するための可能性を見いだせるはずだから。その愛と平和の歌は、時代を超越したユートピアの理想そのものであり、さらに屑となったことによって、その本来の意味の部分が浮き彫りとなり、そこから取り出しやすくなってもいる。ハウスに秘められているのは、失われてしまった正義である。だからこそ、その歌に耳を傾けることで、必ずや見えてくるものがあるはずである。それは、まさに(今ここからは見通せないような)未来への希望である(それを屑化し敗者にした今から眺めているのだから、そのままでは決して見通せなくなっているのは当たり前のことである)。

今村仁司は「歴史の屑、廃物、廃墟の表情のなかに根源史の表現を見ることを、別の言葉で言い換えると、それは「世俗的啓示」になる。」と書いている(『ベンヤミンの〈問い〉』講談社選書メチエ)。ハウスを思考し哲学することは、そこにある敗者と死者の表情を覗き込んで、今ここで世俗的な啓示を獲得することにほかならない。

現代社会を世知辛いものにしている資本主義の精神に透徹された価値基準の視座から見れば、そこへの時代の移り変わりに(宿命的に)乗り遅れたハウスは、間違いなく落ちこぼれであり劣等生であり異分子である。だが、その透徹したオルタナティヴな哲学性によって、それは屑化することで救済され世俗的啓示として再生し、未来のダンスフロアとダンス・カルチャーにとっての爆発的な革命的エネルギーの起爆剤として鳴り響くことになるのである。歴史の屑は、反時代的な爆弾として、救済されるときを雷管の末端で待ち続けている。今まさに歴史の天使は大きく両の羽根を広げて、瓦礫の中に埋もれたハウスに手を伸ばそうとしている。

ハウスとエコノミー

ハウスのムーヴメントと世界的な経済の動向には実は密接な連関があったように思われる(特に日本のマーケットにおいて)。85年9月22日のG5(アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、日本をメンバーとする先進五ヶ国の蔵相会議)において決定された歴史的なプラザ合意によって、アメリカを中心とした国際的な経済状況を安定化させるために為替相場をそれまでの円安ドル高での固定制から政策的に一気に円高傾向へと逆転させてゆく流れが確定的なものとなった。この合意により、それまで1ドル230円台で取引されていた為替レートは、その翌年には160円台へと急激に下降(円の高騰)してゆくことになる。この通貨価格下降の動向は88年まで続き、最終的には1ドル130円台というレートにまで達して、ひとまず行き着くことになる。プラザ合意から3年で1ドルは100円も高くなったことになる。こうして、ジリ貧に陥っていたアメリカの経済は、先進国が協力してグローバルな経済動向を安定させることに努めることによって救われたのである。逆に言えば、グローバルな経済が安定していなければ先進国を中心としたマクロな経済状況も遅かれ早かれ崩壊してしまうだろうということが、これによって薄々明らかにされたのだ。すでにグローバルに動き回る(実体の見えない)マネーが地球の経済を牛耳り動かしている時代が到来していたのである。

こうした為替レートの動向は、海の向こうから日本の市場に運ばれてくる輸入盤レコードの価格にも大きく影響を及ぼし始めていた。かつては2000円~3000円していた輸入盤のアルバム(LPレコード)は、円高の煽りを受けて遂にはそのほぼ半分の値段で輸入盤専門店の店頭に並ぶまでになっていたのである。つまり、当時の10代の(遅れてやってきたX世代の)若者でも手が届くような価格となっていたのだ。80年代の後半あたりからは、都内に輸入盤のレコードを取り扱うレコード店が新たに次々と出現した。西武セゾン系のWAVEなどの大型店や、シスコやDMRなどの小型の専門店が、競い合うように毎週大量に仕入れる海外のニュー・リリースをガンガン売りさばいていた。90年代に入ると渋谷の宇田川町周辺に世界でも有数のレコ屋街が出現することになる。

「ハウス・ミュージックは、最後のそして完全な「商品」である。それは、すべてがヴァージョン・アップされたオリジナルをもたないコピーであり、また、コピーされることが前提として作られている。コンピレーションが多い上に、その本領が発揮されるのが12インチ・シングルであることから、購入されたディスクは資産的に蓄積されることなく、聴き終わるやいなやセカンド・ハンドにも全く無価値な円盤と化していく。それは、まさに純粋な消費の欲望の発動のための、1回100円のテレビゲームのようなものなのである。」
「結局のところ、ハウス・ミュージックの正しい聴き方からすれば、どのレコードを買っても同じなのである。むしろ、手当り次第に何十枚も買って、真っ黒な塩化ビニールの中に埋もれてあくまでも単調なデジタル・ビートに身を委ねて欲しい。」

『Fool's Mate』(89年8月)「ベーシック・エクスターミネーション」

「アシッドやニュー・ビートを通過せずして90年代の最新音楽動向を把握することは不可能だ。今からでもまだ間に合う。すぐにレコード屋に走り、ハウス12インチをしこたま買え!」

『M/X #0』(90年4月)

プラザ合意後の円高傾向への国内対策を呼び水として引き起こされたバブル景気は、遂に91年に崩壊し、それに端を発する景気後退による不況によって、さらに円高傾向は(皮肉にも過剰に)進行していったのである。そして、95年には1ドルは90円台で取引されるまでになっていた。輸入盤レコードの価格は、US盤12インチ・シングルで一枚800円台~900円台にまで下降し、多くのDJ気取りの若者がレコード袋に入った大量のレコードを脇に抱えて渋谷の街をウロウロするという奇妙な光景を生み出した。この80年代後半から90年代半ばまでの空前の円高持続時代が、ハウスという音楽がシカゴやニューヨークから伝わり東京においてもムーヴメントの最盛期を迎えることになった時期と、ほぼ一致する。90年代初頭からの1ドル100円台を踏み越えるまでの円高に突き進んでいった約5年こそが、輸入レコード店にとってもハウスという音楽にとっても経済的な側面からいうとピークであったといえるのかもしれない。

しかし、この95年という歴史的に見ても極めて重大なエポックメイキングな年を境に、グローバルな経済(政策)の動きの中で長く続いていた円高傾向は、大きく円安へと方向性を転じてゆくことになる。97年から98年にかけて、東南アジアと韓国の経済を揺るがしたアジア通貨危機が起こる。98年には、通貨危機の煽りで円が急落したことにより1ドル130円台というレートで取引されるまでになっていた。この頃に、まずはUK盤やイタリアやフランスなどの欧州からの輸入盤がジリジリと高くなってゆく。その後、それを追うように徐々にUS盤シングルの価格も高くなっていった。一時は、一枚1000円以下でお買得感が満載であった12インチ・シングルが、普通に1000円を少し越える価格で店頭に並んでいた。ただ、それだけの価格変化であったが、(新譜の入荷日には何枚もまとめ買いをするために)かなり高いものになってきてしまったという印象はあった。輸入盤レコードとは安くて手軽に買えるものという感覚に、あまりにも慣れすぎてしまっていたのだろう。バブル崩壊以降、ずっと不景気な経済状況は続いていて、渋谷の街をふらふらして毎日レコード屋巡りをしていた若者たちも決して特別に豊かな生活などはしていなかったのである。いや、この不況で誰もが苦しい時期に、それを乗り越える方策を何も考えずにハウスのレコードばかりを買い込んでいたのだから、為替レートの影響でその唯一の楽しみであった輸入レコードの値段が上方に僅かに変動したときに初めて自らの懐のひもじさに気づいたとしても、時すでに遅しであったことは言うまでもない。

90年代後半、渋谷の輸入レコード店に並ぶレコードの価格に変化があったことも要因のひとつであるのだろうが、ハウスという音楽の文化的な勢いにも明確に鈍りが垣間見られるようになってくる。寒々しいほどの不景気が極まり、景気停滞により全ての動きがみるみるうちにスピード・ダウンしてゆく中で、ハウスを取り巻く動きも衰退の一途を辿ることになる。00年代初頭、1ドル120円台の円安のレートへと小規模に高騰したことが、渋谷のレコ屋街に深刻な打撃を与えた。そして、00年代の半ばには、ほとんどの都内の輸入レコード店は姿を消してしまうことになる。

個人的には、この頃にはすでに海外からの通販(ジュノ・レコード等)でのレコードの購入を開始していた。00年代初頭あたりにはまだ、現地(ロンドンやニューヨーク)のレコード店で取り扱う国内盤(ドメスティック盤)の価格の安さから、そこに日本への送料を追加して注文しても都内のレコード店で購入するよりも(電車賃などの交通費などを加算すると)少しばかり割安となるという状況があったのである。しかし、00年代の半ばぐらいになると、為替レートは1ドル110円台あたりを落ち着いて推移するようになるものの、国内の経済状況の荒廃からか音楽雑誌なども次々と休刊や廃刊に追い込まれて、その余波でほとんど仕事がなくなってしまい、そうそう海外通販でのレコード購入もできなくなってくる(それまで週に一回ずつ定期的にオーダーしていたものが、商品を厳選して月に一度だけスモールパッケージ・サーヴィスの割安な送料で済む枚数のみを注文するようになっていった)。

プラザ合意からの約20年間の激しく変動する為替レートの動向に引き回されるように、ハウスの文化も水平方向にも垂直方向にも激しい動きを繰り返すこととなった。その中で、それまでに経験したことのない沸き立つような円高の為替状況が、輸入レコードをめぐってのローカルな新市場を開拓しハウスやクラブをめぐる文化の花を大きく花開かせたのである。そして、それを下支えしていたものがグローバルな経済の動きの中で一気に収束してゆくとともに、大きく花開いた花は萎れて枯れ果て、レコード店の灯も次々と消えて、後には何もない荒れ野だけしか残らなかったということになる。経済的にも文化的にも音楽的にも、あの良くも悪くも全然まともではなかった95年が、大きな分水嶺であり転換点であったことは間違いない。今思うと、あれが全てにおいて頂点を極めていた瞬間であり、あれ以降は全ての面で何もかもが下り坂であったように思える(わたしはハード・ハウスの終末感さえ漂う強烈なバス・ドラムのうなりから逃れてクラブの片隅の暗がりでひとり座り込んでしまっていた)。未曾有の円高に後押しされて、何だか分からぬうちにいつの間にか頂上に立っていたように、麓まで下り落ちてくるのもまるで夢か幻であるかのように恐ろしく早かった。そして、それからというもの、ずっと沈み込んだままなのである。もう一度あの頃のような奇跡的なタイミングで上から下まで全ての要素が噛み合う国際的経済状況が出現しない限り、もう二度と新しいX世代が大雨の後のボウフラのように浮かび上がってくることはないのであろう。

(2016年ごろ?)

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