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私的空間と公的空間の解決はローティ

急に大きなクラクションを鳴らされたら《こわっ》 それは瞬間的な生物としての恐怖心。
プライベートで寛いでいるところに公的機関が入り込んできたら、それは《怖い》
例えばテレビや雑誌の言動を垣間見て、きっとこうなんじゃないかな、こうなればいいのにとあれこれ考えているプライベート空間。人にとって大切な安心して話したり考えたりできるこの空間には、誰にも侵入されない人としての権利があると思う。それはマナーというより、人としてのモラル。モラルじゃないならルールの出番かな。

私が伝えたかった思いに、やっと適切な表現が見つかった。

20世紀を代表する哲学者リチャード・ローティの唱える『偶然性・アイロニー・連帯』にそのヒントはある。私たちは実生活では意見の異なる他者と共に生きながらも、個人としては自己を自由に変え続けていくためにどんな社会をつくるべきか。その応えの一端を探したい。

『人間や社会は、具体的な姿形をとったボキャブラリーである』という。

立ち居振る舞いも含めた言葉遣い=ボキャブラリーって・・・何?
例えば会社に行けばビジネスパーソンモードで喋り━━つまりは🎵スーツ着て(澄まして)正しいことを気取り🎶(だって仕事だから)しゃべっているわけ。でも友達や家族といる時は言葉遣いも変わるだろう。言葉遣いを身に付けるということは一つの人格をつくることにはなる。

勿論、人は場によって言葉遣いを変えていける。どちらが本当と決めつけず、自分を自由に開いていけるのだ。しかしそれでも変わらないファイナルボキャブラリー、信念、終局の語彙があったとしても、アイロニストはそのファイナルボキャブラリーさえも絶対のものとは考えない。そういう考えもあるかもしれないと心を拓いて開いていくことができる。相手の言うことにも一理あると。より良くなる可能性が開かれたものがある方向へ自分が変化していけるという。
何なんだ、このアイロニストって・・・
アイロニズムは創造的変化だという。

異なった人たちと共存し会話を続けることができるのか。ローティは自分の考えを変えることができる人のことをアイロニストとして高く評価した。よりよくなるために自分が変化することで、より自由に創造的に生きることができる。

『公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を棄て去り、自己創造の要求と人間連帯への要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、いったいどういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。』 
(齊藤純一・山岡龍一・大川正彦 訳)三人の方が訳しているけれどまだまだ私には難解。

公共と私的なものとは区別すべきという考えはどうだろう。バザール公共空間とクラブ空間。本音でしゃべっても安心して思考に集中できる空間はそんなには出合わない。そうかと思えば学生時代からの友人たちと、年を経て経験を重ねてからのまた違った出会いもあった。私の公的空間の中に入り込んだ私的空間のよい方の記憶。人それぞれで区別ができない人もいる。

オフィシャルな場の振る舞い方で最近気づいたことがある。テレビ画面を見ていたあるユーチューバーの方、ある場面で画面と一緒には笑わなかった。ちょっと固まっていた。仲間内での嘲笑じみた笑いは、この人も苦手というか、その場ではコメントできないものがある。そうかこの人は、面白おかしくしゃべっているけれど、彼の人権意識は信頼できる。仲間内の嘲笑めいた笑いとは、例えば映画『小説家を見つけたら』の一場面なら、メガネとかおまえの母さんは━とか、動物に例えたりだったか、そんなような記憶。

リベラルについても難しい。
昔から(リベラリスト)って、(エレベーターで先を譲る人)と覚えていたけれど、気が付くと世の中はリベラル、リベラリスト嫌いの人が多いのかな。どうやら政治色が含まれるようで、遣いにくい言葉になった。でも実際に最近エレベーターの前に三人の男性、扉が開きベビーカーの女性とその母親らしき人。進めない。誰も道を開けてあげない。点・点・点・本当に目が点になった。成る程、リベラルは廃れていた。
リベラルアイロニストは解決になるのかなあ。次回の『100分de名著』(NHK Eテレ)は何パーセント理解できるか。

残酷さがあるかどうか、残酷さへのアンテナがあるかどうか。
これについては一つだけ正解を知っている。能力があるかどうかなんて誰にも分からないけれど、やってみたいという願いを潰してしまう残酷さ。ただやるからには、前の轍を踏まないようには願う。

このnoteが安心してしゃべれる場でありますように。

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