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ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』第2、3回振り返り(NHK100分de名著 2024年2月)

第2回 「公私混同」はなぜ悪い?


 アメリカの哲学者リチャード・ローティの著書『偶然性・アイロニー・連帯』の序論には、次のようなことが記されています。

 私の目論見の一つは、(リベラル・ユートピアの可能性)を提唱することである。〔・・・・・・〕私のいうユートピアにおいては、人間の連帯は「偏見」を拭い去ったり、これまで隠されていた深みにまで潜り込んだりして認識されるべき事実ではなく、むしろ、達成されるべき一つの目標だ、とみなされることになる。この目標は探求によってではなく想像力によって、つまり見知らぬ人々を苦しみに悩む仲間だとみなすことを可能にする想像力によって、達成されるべきなのである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのだ。

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』p.6、7

 この冒頭部分には、ローティの根本思想が集約されているといえます。
 「リベラル・ユートピアの可能性」について考えていく上で、重要なワードが2つあります。
 1つは、「終極の語彙ファイナル・ボキャブラリー」です。

番組第2回より

 それは絶対のものではなく、「よりよくなる可能性に開かれたもの」(テキストp.37)だといいます。その点では、第1回で語られていた「再記述」(並列的な言い換えによって理解の"ひだ"を増やしていくこと)(テキストp.29)にも通じる部分があると思います。
  そして、もう一つが「リベラル・アイロニスト」です。

同掲

 他者とのつながりを通して、これらを実行に移していくことが、「リベラル・ユートピア」の構築につながるのではないでしょうか。

第3回 言語は虐殺さえ引き起こす

 今月の「NHK100分de名著」で指南役を務める哲学者の朱喜哲ちゅひちょるさんは、テキストの「第2回「公私混同」はなぜ悪い?」の章を次のように締め括っています。少し長いですが、そのまま引用させていただきます。

 公私を統合しようとすることは、いずれかのボキャブラリーを黙らせることだ。その統合の要求を放棄すれば、私たちは公的にも私的にも会話を続けることができる。会話を続けるなかで、私たちは他者の語彙に触れ、心を動かされたり、疑問を感じたりしながら、自己を拡張し、自分の終極の語彙を改訂に開いていく。改訂の余地があるからこそ、私たちはそこに、他者とのつながりや重なりという希望を見出すことができる。つまり私たちは、リベラル・アイロニストであるからこそ、連帯の希望を抱くことができるのです。

テキストp.59

 この章では、「終極の語彙」や「リベラル・アイロニスト」などのワードを糸口に分断を乗り越えるためにはどうすればいいかについて考えていきました。
 しかし、「終極の語彙」は、「再記述」によって「書き換えられる可能性」(テキストp.64)があるといいます。「自分が大事にしているものが否定されかねない」(同掲)というリスクをはらんでいるのです。
 第3回では、「語り直すことにはダークサイドもある」(番組における朱さんの発言)ということが、ルワンダ内戦やボスニア紛争などを例に語られています。
 その中で、NHKアナウンサーの安倍みちこさんとともに司会を務めるタレントの伊集院光さんが印象的な台詞を口にしています。

番組第3回より

 「ジェノサイドに至ることばづかいの特徴」(下図を参照)を理解した上で、こうした姿勢を貫くことが重要になってくるのでしょう。

同掲

引用文献

↑本稿におけるテキストとは、ここからの引用を指しています。


↓見出し画像は、下記のURLから使用しました。

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