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「われ・われ」の拡張に向けて

こんにちは。

Eテレ「100分de名著」のローティ回『偶然性・アイロニー・連帯』(朱喜哲さん解説)が終了しました。学ぶべき点は数多くありますが、ここでは「わたし」と「わたし」(=「われ・われ」)の「・(ナカグロ)」が取れて、いかにして「われわれ」が形成されるのかについて、「一緒に考えてみませんか」という「呼びかけ」の試みをしてみようと思います。だいたい、1000~1500文字程度で終わらせる予定です。

これは、もしかするとルソーの言うところの、全体意思と一般意志の違いについて論ずることになるのかなとビビっていますが、もちろんそこは力も知識もないため、自重します。

番組のメッセージのうちのいくつかは、「人間とは、相違点をそれぞれの『本質』として落とし込んでしまうと、それを根拠として『残酷さ』が発動されることがある」。それゆえ、「本質(とされるもの)」を理論的に追求するのではなくて、文学的(・詩的)想像力をもって相手の苦衷を察し、場合によっては表現することで連帯していくことが肝要であり、そこには希望があるということだったのではないでしょうか。

しかしそれらは、よく言うところの「共感」の濫発とはいささか異なるのではないかと思っています。

私は、ともするとですが、人の話を聞いていると体調が崩れることがあります。もちろん、発話の当事者は、より大きな困難を抱え込んでいて、そのごく一部を話せる形に鋳直して語ってくれているものと思うのですが、それでも、まれに体調が崩れます。まあ、それが言いたいことではないと思うので、仕切り直そう。

さて、今ここで取り組もうとしているのは、「ニワトリが先か、タマゴが先か」に通ずる問題です。つまり、「語り」は、自ら語るから成り立つのか、その発話を誘発するような「聞く」が先んじてあって成り立つのか。共感し、共感されるものは、言葉の介在によって共有されていくものなのだと思うのですが、「それ」がいかにして提供ないし共有されていくのだろうかということを考えてみたいとも思うのです。

話が行きつ戻りつして申し訳ありません。どのような「聞く」あるいは「語る」が、「私」と「彼・彼女」との間の壁を突き破り、または溶解させて「わたしたち/われわれ」が形成されるのかについて、考えているつもりです。

==以下は休憩を挟んで書き起こしています==

そのような(?)「われわれ」の形成のサンプルを、私は『苦海浄土』と『戦争は女の顔をしていない』(←これはまだ1/3程度しか読めてはいませんが)に見出すことができるのではないかと考えています。これは、「思いつき」、しかも、我ながらなかなかよい「思いつき」であると考えています。

『苦海浄土』は、水俣病患者の生死に寄り添った「文学」です。ドキュメンタリーやルポルタージュではありません。作家の池澤夏樹さんは、自選の『世界文学全集』に、この一編を付け加えています。一方の『戦争は女の顔をしていない』は、「大祖国戦争」(独ソ戦を、旧ソ連ではこう呼称していました)を戦って生還してきた「女性たち」の生の声を拾い集めたインタビュー集ですが、この「著者」であるアレクシエーヴィチ氏は、ノーベル「文学」賞を受けています。

この二著に共通しているのは、「著者」(真の「著者」は、水俣病患者お一人お一人であり、生還した旧ソ連の女性兵士たちであることは言うまでもありませんが)が女性であること。その「著者」は、ある意味では「依代」として、病者や死者にまでも寄り添い、代わりに語っていることではなかろうかと思うのです。

ここには、圧倒的とさえ言える信頼感が醸成されていると思います。それができての、「聞く」であり、「語る/話す」であるのだろうということです。

こうした、「聞く」や「語る/話す」を、稀有のこととして、一回限り、その当事者(=石牟礼道子とアレクシエーヴィチの二人)だけが成し得たこととしてはならないのだと思います。

私たちは、早くも21世紀を四半世紀近く生きてしまいました。しかし、語られぬままになっている「こと」があり過ぎます。そうした「こと」を、それが「ここにある」と指摘する「だけ」でも、価値はあるのではないか。代弁することを模索するのは、「われわれ」のうちに、そうした人々を招き入れることにはならないか。そんなことを考えてみました。


今回は以上といたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。現在2024/3/6(水)3:25ですが、少し寝かせて(=頭を冷やして)から公開することにいたします。それではまた!




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