大詩人宣言〜自惚れか必死か〜
自分からなに言ってるんだって話ですけどね(結論)
と言うことでお久しぶりです。有楽悠です。
この頃なにも書いていないから暇…と言うわけではなく、寧ろ常に書き続けながら常に捨て続ける生活を送り続け、ゴミ箱に送るのもアレなので全てメモに『断章』みたいなタイトルでジャンル毎に闇鍋してるんですが、それらの集積は6桁を優に超えています…何個かは同じ内容を何回も書き直したようなものなので字数分の思想があるわけではありませんが()
ローティに溺れた自惚れ人間の必死の思索
大詩人宣言という言葉には『私が詩を始める』という意味はありません…いや、あくまで一般的な『詩』を始めないというだけであって、これから説明する『詩』をするんですけど。
ということでそれが何かと言いますと、めちゃめちゃ目次に大きくある『ローティ』の詩です。
リチャード・ローティはアメリカが産んだ大哲学者です。が、それ以上に私が好きなのは彼の態度です。
彼は哲学者と一般的に呼ばれながらも、論駁をしません。要するに自分で思想を展開しながらも、その思想の論証をすることはないというのです。
稀代の天才経済学者であるF・A・ハイエクはかつて『原理とは、たとえそれが明示的に示されず〜漠然とした考え方として存在するに過ぎないとしても、自分自身を主張する手立てを持ち合わせている(引用:個人主義と経済秩序)」と述べたそうです。私は隷従への道しか読んだことないので本当かどうかは分かりませんが。要するに、リチャード・ローティは『自分の思想が正しいかどうかはいずれ分かる』から論駁する時間は無駄だと考えたのです。そして生まれたのがローティによる『物語り』です。それが正しいのかどうかは二流以下の哲学者が哲学者研究として調べて一般的に普及させれば良いというのです。
ローティ自身は自分を一流、革命的(卓越した思想は常に革命的であり一般的には理解されない→論証は二流がその思想を一般化した後に行うべきであるという意味での革命的)だとは思わず、あくまで啓蒙的だとしたそうですが、その才能に関しては本を読めば分かるでしょう。ちなみに私は偶然性・アイロニー・連帯を読んでいる途中です。他にもたくさん読んでる途中のありますし。
非常に才気あふれるローティもといハイエクの言葉でありますが、私は『物語る』に足る才能を有しているのでしょうか。
答えは『分からない』だと思います。
私があれこれ考えたところで、それが正しいかどうかは『いずれ』分かります。
ならば、私もまたこの人生の中ではなんとかして、水溜りで暴れて辺りに泥を散らすように、必死に思索をしながら辺りにその一部を撒き散らすような『物語り』をしたいと考えています。
意識の流れに身を任せながら〜さらなる混沌へ〜
ここから私の『物語り』を更に深化させていきたいと思います。必死なので。
意識の流れという概念はプラグマティズムでも有名なウィリアム・ジェイムズが提唱したとされる考え方で、人間の思考は文章化されるような静止した者ではなく、絶えず流れるものであるという考えで、これが文学に輸入され、人間の揺らぐ思考をそのまま文章化しようという手法にその名が付けられます。
具体的に言えば『私はドゥルーズが好きだ』と文章化している時に私はただその文章だけを脳内に浮かべている訳ではありません。例えばつい隣の家からいい匂いがして『隣の家の夕飯はカレーなのかな』だとか、ドゥルーズが好きだと言うその時には誘発されて『リゾーム』概念だとか『アンチ・オイディプス』という著作の事だとかをつい思い浮かべてしまうと思います。それをそのまま『私は今いい匂いがしたな隣の家の夕飯はカレーなのかドゥルーズが好きリゾームとツリーの絶え間ない移り変わりがアンチ・オイディプスも面白いから読んでほしいな』と言うように、いわゆる『文章化』をする事なくそのまま書き記してしまうと言う手法になります。
ただ、もちろんこれをそのまま使うつもりはありません。Noteで記事書いてる時にいきなり『この思想は今夕焼けこやけが遠くから聞こえたな』なんて言ってたらどうにもなりませんので。
ですが、ある程度これに類似した行為は行おうと思います。
要するに、文章の中で『これはAだ』と最初に考え、文章の終盤に当たって『これはAではなくBだな』と考えた時に、最初の文章を消してそこから書き直すのではなく、全てを自分の思想的変遷として『物語ろう』と言う企てです。
思考をスッキリさせすぎてしまうと、過程が見えなくなる。
だからこそ、『物語り』、『意識の流れに身を任せ』てみようと思います。
出来る限り深く混沌へ
必死にもがき続けながら辿り着きたいと思います。
要するに
これからやっていこうと考えているのはアイドルマスターシャイニーカラーズの読解です(←!?)
…もちろん普通に読書感想も哲学の話もしますし、というかシャニマスの中で哲学の話をどこまで使って話せるのかという試みから読解という言葉を使わせていただきました。哲学というか思考法というか。
現代においての『学問としての哲学』、要するに高校では基本無いと思いますが、大学、大学院においての哲学であったりというのは大体哲学研究です。具体例を言うと、先ほど述べたような哲学者の解説。誰々の〇〇概念に関する研究であったりです。そう言うものはやはり奇抜すぎますし、新人がいきなり新しい概念でいろんな論説繰り広げられたらよく分からなくなるのは理解出来ますが、私はそれでも研究ではなく知りたいのです(研究が知ることに繋がらないと言う意味ではありません。もちろん、研究も一定数必要ではありますが、それだけでは自分は満足できないという意味で)。
というかはっきり言うと、浅倉透の時間概念が好きすぎました(つづく、)。ドストライク貫かれました。
そこから、哲学研究が退屈になって、シャニマスの考察だったりがすごく楽しく感じるようになりました。その中で雛菜の考え方に魅了されたわけですが、それは来週辺りに続きとして書ければいいと思います。これ長くなっちゃったんで。
と言うことで今回はこの辺りで。随分と仰々しい宣言をしながらその内容は実は今までとそこまで変わらない有楽悠でした。
参考文献:引用したのはハイエクの『個人主義と経済秩序』という本なんですが、実はこの引用が扱われていて、かつ今回のリチャード・ローティ論の大半が扱われているのは講談社学術文庫の『リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師』(渡辺幹雄著、2012年発行)という本です。電子書籍にもあるし、リチャード・ローティの本はこの文庫本に比べれば大体高いので(当たり前だが)、ぜひ興味を持った方は買ってみてもらえると嬉しいです。
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