見出し画像

「公」と「私」を分け(られ)ない日本人

プライベートな誘いをプライベートな理由で断る日本人

 「プライベート」という言葉を私たちはよく使います。微妙な距離感の同僚から、とつぜん飲み会へ誘われた時などに連発するでしょう。「金曜日の夜はプライベートな用事があって、すみません」という具合に。一部の例外を除いて、あらゆる誘いを一刀両断することのできる便利な言葉です。
 プライベートという言葉は、"私的な"という言葉に置き換えることができます。私的な用事があるという理由によって、あまり楽しくなさそうな飲み会を断ることができるわけです。
 ところで、なぜ私たちはこうした誘いを"私的な用事"によって断ることができるのでしょう。そもそも"私的"かそうでないか、の判断基準はどこにあるのか。

 例えばあなたが、上記のような誘いを"私的な用事"(例えばパートナーとのデートとか)により断るとします。これはつまり、あなたは同僚との飲み会を"私的な用事"だとは感じていないということです。"私的"の対義語は"公的"。単なる飲み会なら"私的"と言えるでしょうが、"同僚"という属性が追加された瞬間、あなたはこれを"公的"だと感じているわけです。ここでいう"公的"とは、"勤め先における業務"と言い換えることもできるでしょうか。
 しかしながら、同僚の誘ってきた時間は夜の20時。これは勤務時間外であり、考えよう(or就業規則)によってはすでに"私的"な時間かもしれません。ひょっとしたらこの同僚は、この飲み会自体"私的"なものだと捉えている可能性があります。
 つまり、同僚の"私的"な誘いを、あなたは自分の外せない用事が"私的"だから、という理由で断っている可能性があるわけです。不思議なコミュニケーションが発生しているようにも見えますが、なぜかこうした断りは案外あっさり受け止められてしまいがちです。もしかしたら同僚は傷ついているかもしれないのに。ますます不思議です。同僚もあなたも、何が"公的"で何が"私的"であるかについての同意、あるいは合意を全く取っていないわけです。

 私たちにとって、何が"公的"であり、何が"私的"であるのか。これがよく分かりません。たぶん、はっきりわかっている日本人はいないと思います。よく分からないので、日常においてもそれっぽくふんわりと使われるわけです。実際は、そんなことはどうでもよくて、ただ面倒な誘いを断りたいために難しい言葉を使って相手を惑わせているだけなのかもしれないですね。

世の流れがどこに向かうのか、私たちは自覚できているのか

 歴史的には、"プライベート"という言葉は"privare"というラテン語から生まれており、"privare"は"奪う"という意味を持ちます。奪う、という言葉が私的という言葉に転じていきます。どういうことかといえば、そもそも"私的"なものというのは、どこからか"奪う"ことによって初めて成り立ったということです。どこから"奪う"のか。それは"公的"なところから、だとされています。昔のヨーロッパでいえば、王様とか貴族とか領主とか。
 日本でも、大化の改新あたりで「公地公民」という政策により、土地も人民も全て天皇のものである、ということが定められましたが、その後「墾田永年私財法」により自ら切り開いていった土地(=荘園)の私有化が認められていきます。この辺から"公的"と"私的"の概念は作られていったのだと思います。元を辿ろうとすると、けっこうな歴史が待っていますし、ここ最近に至るまでもずっと議論されています。はっきりとした答えはいまだ存在しない、というよりは日々変化しているのだと思われます。

 特に近年は、インターネットのような情報通信技術の著しい発達によって、"公的"と"私的"の境目はどんどん薄れているとも言われています。なぜネットが境目を薄れさせるのかと言えば、情報の伝わる速度があまりにも速すぎて、人の頭が追いついていないからです。フェイクニュースに未だ対応しきれない現代社会を眺めていると、そのことがよく分かります。

 不同意性交等罪の成立などに代表されるように、なんらかのやり取りについて"同意"や"合意"が求められるような動きはどんどん広がってきており、そうした中においては先ほど述べたような"それっぽくふんわりと"などということは難しくなってくる場面も増えるでしょう。
 そうしたこともあって、昨今の世間では、例えば勤め先の利害関係者とのコミュニケーションは例外なく全て"公的"であるといっそのこと決めてしまうという考え方もあります。こうした動きは、とくに性にまつわる分野を起点として比較的顕著に広がっているように見受けられますが、こうした考え方は例えば"飲み会の誘い"といったようなものに対しても適用されるでしょう。それはつまり、日常のあらゆる場面において"同意"や"合意"が求められることを意味しますが、そうしたことについて、私たちは果たしてどこまで自覚的であるのでしょうか。どうも疑わしいように思います。

"あいまい"に"空気を読む"日本人

 他方、"あいまいにしておいた方がいい"という考え方があります。これからいろんな場面で書いていこうと思っていますが、私は、日本で生まれ育った人の大多数はこうした考え方をすべての基盤として持ったうえで暮らしているのではないかと感じています。だからこそ、私的な誘いを私的な用事で断るような不思議なコミュニケーションもなんとなく許容されるのだと思っています。"空気を読む"というのも似たような意味を持っている気がします。
 ノーベル文学賞を受賞した日本人である大江健三郎氏の、ノーベル賞受賞記念講演のタイトルは「あいまいな日本の私」です。ある種の人々にとってこの「あいまいさ」というのはどうしたって目に付くのだと思います。

 判断を留保し、周囲のあらゆる利害関係を汲み取った上で行う刹那的なコミュニケーションが"空気を読む"の正体なのでしょう。それは時に強い非難を浴びることもあります。一方で、こうした"空気を読む"生き方は、日本の歴史において幾度となくこの国自身を救ってきたものでもあります。
 私は、こうした日本人の考え方について、何より日本人自身が自覚をできていない可能性をやや危惧しています。それによって、変化の激しい現代においては日本人が自分たちの首を(恐るべきスピードで)絞めていく可能性があるのではないかとすら感じます。

 例えば、"合意"ひとつ取ってもそうです。先ほどの飲み会問題一つとってもそうですが、日本人は変に賢いせいなのか、いちいち極端になるきらいがあるように思います。何故か、「すべてを法制化すべきだ」という人たちと、「一切を法制化すべきでない」という人たちの二極化が生まれ、間に立つ人がおらず、議論が止まります。ひょっとしたら、"空気を読む"という刹那的なコミュニケーションを好む日本人ですから、議論を敢えて停滞させ"あいまい"にしておこうとする集団心理が働いているのかもしれない、なんてよく分からないことを勘繰ってしまうぐらい、日本人はこうしたことの話し合いを苦手にしているような気がします。

 では、日本人が議論をできるようになるためには何が必要か?これはとっても根深い問題だと思います。なぜか。そのことを考えるためには、"あいまい"の極地たる、ある機構について最終的に検討しなければならなくなるからです。それは「天皇」です。この二文字を前にすると、現実的に考えてそもそも「検討」ができるかどうかすら、私は疑問に感じてしまいます。
 そのくらい根深い話なのだということを、果たしてどのくらいの人が認識しているのだろうか。そんな中において私一人が何かしらの意見表明をすることに、果たしてどれだけの意味があるのだろうか。
 そんな悩みを、当面書き綴ってみることにします。

参考にしたもの

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sstj/11/0/11_81/_pdf/-char/ja

https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/3877/KJ00004316175.pdf

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0011/SK00110L129.pdf


もしよければ、コメントとか、サポートをいただけると、とても嬉しいです。そこから関係が始まって、つながっていけるといいな〜というのが、僕の願いです。