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ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とローティのプラグマティズム哲学の親和性

ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の自己批判にもとづいて、『哲学探究』などで展開した言語ゲーム理論は……言語を用いたわれわれの行為がゲームのようなものだ、という思想であるが、その論点の一つは、言語表現を行う行為には典型的な型などなく、さまざまな発話のスタイル、言語表現の使用法があるということ、つまり、言語とは主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束だということである。そして、言語ゲーム理論のもう一つの論点は、言語の意味とは「多くの場合において」、ゲームのなかで使われる「言語表現の使用法」として理解されるということである。(中略)
ところで、このような言語ゲーム理論の言語理解は、基本的に、意味や意図、定義や解説、問いと説明などが、言語実践の共同体の内部でのみ成立するという発想であり、ある意味では、ローティのいう「認識の真理や価値は自文化中心的にしか問うことができない」という主張に非常に近いものであるように思われる。(中略)これがローティのネオ・プラグマティズムの主張であった。ローティはまさにそれゆえにこそ、『プラグマティズムの諸帰結』その他の著作において、ウィトゲンシュタインを20世紀の代表的なプラグマティストの一人に数え入れたのであった。

伊藤邦武『プラグマティズム入門』ちくま新書, 2016. p.185-186.

プラグマティズムという哲学の思想について、解説したのが本書『プラグマティズム入門』である。プラグマティズム(pragmatism)とは、「真理とはわれわれの行動にとっての有用な道具である」とする考え方で、われわれの行動の結果や有用性から物事の真理を判断するような思想である。真理を「道具」と考えるこの思想からは、存在論における「多元主義」や、事実と価値の区別の否定(事実と価値は優劣のない同列のものであるという考え)に通じるような、世界についての古典的了解を根底から覆すような革新的な見方が導かれる。古典的プラグマティズムは、数学者・論理学者でもあったチャールズ・パースや、哲学者・心理学者のウィリアム・ジェイムズなどアメリカの哲学者たちによって19世紀末に創始された。20世紀後半にプラグマティズム哲学は再び注目されるようになり、ウィラード・クワインやリチャード・ローティなど現代アメリカ哲学の中心的思想家たちが「ネオ・プラグマティズム」と呼ばれる潮流を形成した。

本書の中で興味深かったのが、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とローティのプラグマティズム哲学の親和性を述べた箇所である。というのも、プラグマティズムでは、論理実証主義が唱える「論理による真理の実証」というものを否定し、「真理とは道具としての有用性で決まる」という「反デカルト主義」の立場をとる。いわば、論理実証主義へのアンチテーゼとして生まれてきたのが、プラグマティズムの思想だと言える。しかしながら、ウィトゲンシュタインは論理実証主義の中心的哲学者とみなされることが多い。それがなぜ、プラグマティズム哲学と親和性があるとされるのだろうか。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig J. J. Wittgenstein、1889 - 1951)の思想は前期と後期で大きく異なる。彼が1922年に出版した初期の著作『論理哲学論考』は、論理実証主義の哲学の理想的モデルを示すものとして高く評価された。この本による彼の思想は「われわれは語りうることは明晰に語りうるが、語りえないことは沈黙しなければならない」というテーゼに要約される。真理とは論理によって明晰に定められる境界があり、その境界の外にある「語りえないもの」については沈黙すべきである(形而上学的信念や倫理的信条の表明は、言語的次元では無意味である)とした。しかし、その後彼は自分の思想を自己批判するようになる。彼の後期の思想は「言語ゲーム論」に代表される。「有意味性」を規準にして言語行為を分類していた思想を批判し、「言語とはそもそもルールのないゲームのようなものである」という思想に至る。言語の意味とは論理的に(形而上学的に)決められているのではなく、言語にはさまざまな発話のスタイルや使用法があり、言語の意味とは、ゲームのなかで使われる「言語表現の使用法」として理解されるという考え方である。

この「言語ゲーム」の考え方を、ネオ・プラグマティストのローティが、プラグマティズムの考え方に近いとしたのである。ここで、ローティの思想についても概観しておきたい。リチャード・ローティ(Richard M. Rorty、1931- 2007)は、プラグマティズムの「多元主義」の考え方を発展させ、「事実と価値の二分法の拒否」という思想に至った哲学者である。プラグマティズムは、真理という概念に対して、科学から文学、道徳、政治まで、あらゆる知的活動をすべて優劣のない、平等のものとする「多元主義」の立場を採用する。なぜなら、プラグマティズムにおける真理の規準は論理や客観的(科学的)事実ではなく、結果からくる有用性だからである。プラグマティズムにおいては、客観的真理を追求するとされる科学が、他の知的活動に対して優位にたつ根拠は何もない。とはいえ、それが「人間の連帯の模範」となるという意味では、科学の価値は高いということもできる。つまり、ローティは、客観的真理とは「人々が連帯という形で共有しうる信念」の別名だと考えた。彼のテーゼは「客観性とは連帯の別名である」と要約できる。ローティにとって、「連帯(solidarity)」とは、知的な探求を行う個々人が、探求におけるそれぞれの規範を共有しようと考える共同体へと帰属する、ということである。

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を振り返ってみると、言語とはもともと意味や定義が決められているわけではなく(ルールが決められたゲームではなく)、お互いの共同行為の中で言語を使用することによって、自ずと意味が理解されていくゲームのようなものであった。ここでは、言語の意味という「真理」は所与のものとして決められているのではなく、言語の「使用法」やその「有用性」によって決まってくる。このように見ると、言語ゲーム論はプラグマティズムの考え方と親和性があることが分かる。ローティ的に表現すると、言語の意味は、それを用いる共同体メンバーの「連帯」によって、その客観性が定まってくるのである。

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