見出し画像

アイドル新歴史学。「②アイドル・ルネサンス」

1970年代に音楽雑誌『ミュージックマガジン』誌上で「日本語ロック論争」というものが勃発した。
簡単に言えば「ロックは英語で歌われるべきか、あるいは日本語で歌ってもロックになるのか?」というテーマであった。

現在の「日本のロック」と呼ばれるものは、かの時代の「論争」を経て確立していったものなのである。

「ロック」という外来文化に対して「元の形式を崩さない」のか、
あるいは「和様化して取り込む」のか、
というのが、現在の視点から振り返る当時の論争の論点である。

その時、「ロックの和様化」の側に立っていたのが「はっぴいえんど」である。

彼らは、日本という文化が、外来の仏教や宗教建築を和様化してきたように、当時の最新の外来文化であるロックの和様化を試みていた。

その「和様化」のプロセスにおいて、
彼らはロックという大衆音楽の「研究者」としては日本最高峰となった。

そこから生み出された音楽は、極めて論理的、かつ高度な「翻訳文学性」を持っていた。

彼らの音楽の紡ぎだす心象風景は、
同時代の見慣れた日本の都市が舞台でありながら、そこに全く新しい風景を生み出すことに成功していた。
極めて演算的に細密に、かつクールに、はっぴいえんどは見事にロックを換骨奪胎して「ロックをロックのまま」日本という場所へと着地させた。

だが、
しかし、そこには決定的なものが欠けていた。

「表現者」である。

アフロ・アメリカン文化とアメリカ底辺白人文化の衝突によって「ロック」が生まれるには、エルビス・プレスリーという類いまれなる「表現者」の身体が必須であった。

エルビス・プレスリーの登場は、ロックがこの世に受肉した瞬間であった。

エルビス・プレスリー

その意味で、はっぴいえんどによってある種極められつつあった「ロック和様化」には、それに見合った「表現者」の登場が待たれていた。

はっぴいえんどのメンバー、つまり都市型ブルジョワたち+東北の怨念性を持つ天才音楽研究家の「物語」は、エルビス・プレスリーが0.5秒で表現した「アメリカの現代ティーンエイジャーのリアリティ」のような圧倒的な爆発力に致命的に欠けていた。

「ロックの和様化」を実現するには、
そのような現代に生きる若者たちを一瞬でブッ飛ばす「爆発力」を最後に搭載する必要があったのである。

そこに登場したのが、

松田聖子

すなわちアイドル界のミケランジェロである。

「ダビデ像」ミケランジェロ南沙織という「ギリシャ(始原)」を見事に再構築し、「アイドル」を完成させた松田聖子の「身体」は、ミケランジェロの「ダビデ像」のような「一つの芸術様式の頂点」を提示したのである。

松田聖子の身体には、はっぴいえんど一派(含ユーミン)による綿密な音楽研究のリソースが搭載されていた。

そして、
「現代日本の10代女性の心象風景を自らの身体をもって自由自在に表現する」
天才・松田聖子の登場によって、1950年代~60年代のアメリカ大衆音楽は完全に「和様化」され、現代日本の若者たちに「直接」響く音楽へと変換された。

つまり、松田聖子によって日本のアイドルにおける「頭脳+身体」のシステムが完成したのである。

そしてそれはミレニアム期に爆発する「〜プロデュース」のムーブメントへと繋がって行くものであった。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?