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さまざまなサイケデリック・メディスン―ペヨーテ あるいは、異次元的光源の炸裂

 シャーマニズムのプラント・メディスン(薬草)の中には、さまざまな種類がありますが、その実際の効果の性質、変性意識状態(ASC)にも、さまざまな個性や特徴があります。
 それぞれのメディスンの、個性や作用の特徴をよく理解しておくことで、私たちはそこからさらに深く、いろいろな事柄(意識形態、智慧、エネルギー)を学ぶことができるようになるのです。
 その際、さまざまなタイプのメディスンを体験して、その特徴を感覚的に比較していくことで、より理解を深めることができます。
 また、そのことで、自分の感覚意識の中に、「メディスン・マップ」のような感覚的な地図・広範な見取り図を作っていくことができるのです。
 それは、私たちの「意識形態」そのもののマップともなっていくのです。
 そして、そのことは、私たちの意識拡張と意識統合のために、とても役立ち、実りの大きなものとなっていくのです。
 ここでは、そのようなメディスンである「ペヨーテ」についてとりあげてみたいと思います。

 ペヨーテ peyote とは、ロフォフォラ科のサボテンのことであり、メキシコの先住民ウイチョル族 huichol が、その伝統的な儀式の中で使ってきたものとして知られています。現在では、周辺の部族や付近の信仰圏でも、広くその使用が見られるものです。
 ちなみに、ウイチョル huichol とは、メキシコ人たちが、彼ら部族を呼ぶ名称であり、本人たちは、自分たちのことを、彼らの言葉で wixarica ウィラリカと呼んでいます。そのため、彼らと仲の良いメキシコ人は、彼らの前では、ウイチョル huicholという言葉は使わない方がよいと勧めます。
 ウィラリカの人々は、他のメディスンに関係する部族のように、メディスンに関わる事柄をあまり商業化しておらず、概して、それらに関して、閉じたスタンスを持っています。実際、彼らにとって、ペヨーテは、部外者のものではなく、彼らのためのものなのです。
 もっとも、逆に言えば、他のメディスンに関わる部族やその周辺の人々が、過度に商業化されており、詐欺まがいのもの(や詐欺そのもの)が多すぎるという言い方もできます。
 アンドルー・ワイルが指摘するように、先進国の私たちが空想するようなシャーマンなど、そもそも存在していないし、いても、砂金のようにわずかしかないということでもあるのです。しかし、それも、現代資本主義社会の中での、彼らの困窮した生活を知れば、理解されることでもあるのです。そのため、「ただ、シャーマンがいればいい」というものでもないのです。「どのようなシャーマンであるか」が問題となるのです。

 また、ウィラリカの人々は、ペヨーテのことを、彼らの言語で、ヒクリ hikuri と呼びます。そのため、身近なメキシコ人も、普通、これをヒクリと呼んでいます。
 ヒクリ(ペヨーテ)は、大きなものに育つのに、何年もの歳月がかかるため、乱獲によって、数が激減してしまったと言われています。そのため、これが、他のメディスンほどは、商業化されなかった一因でもあるかもしれません。

 ヒクリ(ペヨーテ)の中には、サイケデリックな成分であるメスカリン mescaline が含まれています。メスカリンは、フェニチルアミン系の幻覚成分です。
 体験と探求を深めていくと、単なる成分としてのメスカリンと、生物(生命体/存在)としてのヒクリを同一のものとして語るのには疑問が生じてきますが、成分メスカリンは、さまざまな作家やアーティストによって使用され、有名になりました。

 オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』や、アンリ・ミショーの『みじめな奇蹟 Misérable Miracle 』他の体験記録が、有名なものです。
 また、シャーマニズム関連の連作を書いたカルロス・カスタネダの第一作の中でも、「メスカリト」は、異次元的な世界を垣間見るのに、重要な役割を果たしています。
 ハクスリーは、その体験について語ります。

「…私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造の朝に見たもの―裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇蹟であった。イスティヒカイト。存在そのもの―エクハルト(※ドイツの神秘家)が好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在―ただし、プラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、奇怪な誤りを犯したように思われる。だから、可哀想な男プラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは―はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を超えた、しかし、自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる…というものであった。」

「…私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思った―だが、その呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。グレイス(神の恩寵)、トランスフィギュレーション(変貌、とくに事物が神々しく変貌すること)といったような言葉が、私の心に浮かんできた。むろん、これらの言葉は、私が眼にする外界の事物に顕わされて顕われていたのである。バラからカーネーションへ、羽毛のような灼熱の輝きから生命をもった紫水晶の装飾模様―それがアイリスであった―へと私の眼は少しずつ渉っていった。神の示現、至福の自覚―私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。…仏陀の悟りが奥庭の生垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私が眼にしていた花々も、私―いや『私』という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の『私でない私』―が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった」

ハックスレー『知覚の扉』今村光一訳、河出書房新社 ※太字強調引用者

 存在の深い次元が開示されていくような体験であったわけです。
 また、アンリ・ミショー Henri Michaux は、素晴らしい才能をもった詩人ですが、彼のメスカリン体験記録の連作は、神経質で自意識の強いミショーが、メスカリンのパワーに圧倒され、翻弄され、格闘した、興味深いドキュメントとなっています。

「信じ難いもの、子供時代からわたしが必死に望んでいたもの、わたしが決して見ることはないだろうと思っていた、締め出されているかのように見えていたもの、今まで見たことも聞いたこともないもの、近づき難いもの、美しすぎるもの、わたしに禁じられている崇高なもの、それがやってきた。
 わたしは何千体もの神々を見た。驚くべき贈り物を受け取った。信仰を持たぬわたしに(もしかして持つことができたかもしれない信仰というものを知らないわたしに)、神々が見えたのだ。神々はそこにいた。眼の前に、かつてわたしが見つめたことのあるどんなものよりも確実に現存していた。そんなことはあり得なかった。そしてわたしはあり得ないということを知っていた、それにも拘わらずだ。それにも拘わらず、神々はそこにいた、何百体となく、互いに身を寄せ合って並んでいた(だが、ほとんど気づかれないほどの何千体もが、いや何千体よりもずっと多くの神々が、数限りない神々が、その後に続いていた)。彼らはそこにいた、いかにも自然に見える空中浮遊によって空中に吊り下り、ごく軽やかに移動している、あるいはむしろその場で活発に動いている、そのおだやかで高貴な神体たちは。その神体たちとわたしとだけが現存していた」(中略)

「わたしの幸福は、わたしが幸福に耐えることのできる極限にまで達した。それは天使の至福だった。(中略)
 それらのすべては惜しみない喝采の中にあり、感嘆の絶頂にあるわたしは、内部にいるわたしを焼き尽くすことなく燃える新しい火の石綿、限りなく、言葉もない至福の中で、家に、普通の、無限の、家に戻った。
 エクスタシー、それは世界の崇高な創造に協力することだ。
 支離滅裂な言葉。わたしが語っているのはそれだ。わたしが語っていることは、わたしが語らなければならないことの、千分の一も語っていない。比喩はやって来ない、論理は現われない、分析と骨組みとの文明は、この限りない、抽象的な美の中では、わたしの助けにはならないのである」(中略)

「ニュース映画のスクリーン、その上にはもう何もなかった。
 歴史のスクリーン、その上にはもう何もなかった。
 土地台帳の、計算の、目的のスクリーン、その上にはもう何もなかった。
 あらゆる憎しみから、あらゆる敵意から、
 あらゆる関係から、解放されて。
 決断と不決断の上で、
 様々の局面の彼方に、
 二つということも幾つかということもなく、連禱が、
 徴候すら与えることのできないあるもの、
 『真実』の、連禱が、存在するところで、
 反感の、否の、拒否の彼方に、
 好みの彼方に、
 絶対的な純粋さの魅惑の中で、
 不純さが考えられもせず、感じられもせず、意味も持たぬところで、
 わたしは聞いた、すばらしい詩、雄大な詩、
 限りない詩、
 理想的に美しい詩句を持ち
 韻もなく、音楽もなく、言葉もなく、
 絶え間なく『宇宙』を歌い続ける詩を」

アンリ・ミショー『荒れ騒ぐ無限』小海永二訳(青土社)

 
 また、メディスンの効果/性格についていえば、例えば、マジック・マッシュルームがソフトなのに較べて、ヒクリ(ペヨーテ)は、ハードであると言われます。
 実際のところ、ヒクリの力は、非常に力強く、特異なものです。そして、長時間(10時間以上)にわたって作用します。
 ウィラリカの人々が、「ヒクリ=カユマリ kayumari =青い鹿の精霊」を通して、至高の火の神タテワリ tatewari につながると考えるように、それは、私たちを、異次元的・無時間的な永遠の陽光の下に、強烈に照らし出すものなのです。
 そして、私たちを、過度に透徹した、透視的な世界に導くのです。
 実際、私自身の体験も、そのようなものでした。

「それは、
原子爆弾のような、
凄まじい、
眩しさである。

宇宙的な根源の光源が、
炸裂するかのようである。

異質で熾烈な光が、
宇宙的陽光のよう、
照りつける。

ヒクリが、
何年何十年にわたって、
毎秒毎秒、蓄積してきた、
原子太陽の、狂ったように眩しい熱エネルギーに、
ジリジリ灼かれるようである。

アステカの、エジプトの、
時間が止まったかのような、
永遠の正午。
永遠の真昼。
その終わらない真昼の現前が、
そこにある。

その苛烈な、無時間的、永遠の閃光の中で、
ジリジリと灼かれ、
干上がっていく。

その永遠の現在の中で、
生物的起源が遡行されていく。

人間の生物的、
細胞的基底が、
暴露され、
剥き出しにされ、
照らし出される。

受精卵の、
細胞分裂の、
器官生成のプロセスが、
再現されるよう、
眩しすぎる光に、
照らし出される。

血統の、一族の、
さまざまな錯綜の糸が、
撚りあわさっている。
その精妙な流れと結びつきが、
細かくわかってくる。

………………………………

それは、異次元的な眩しさである。

そこには、
別の層、別の世界がある。
別の並行世界がある。

時空を透過する、
無数の出入り口、
驚異のトランスポーテーションがある。

………………………………

植物のスピリットや未知の存在が、
不思議な姿をとっている。
無数の異次元的宇宙の臨在。

そこでは、
人間が想定している物理的宇宙などが、
塵のように微小なものであり、
ほんとうの〈無限〉の中では、
芥子粒のように微かなものであることがわかる。

ほんとうの宇宙は、
無限に豊穣で、多層的・多次元的であり、
無限に入口と出口、通り道を持ち、
異次元的であることがわかる。

それは今も、かつても、
ずっと在ったものである。
私たちは、それを「別の意識」で、
ずっと知っていたこともわかる。

カスタネダが、後の作品で、
「別の意識」「別の側の意識」について、
語り出した意味がわかる。

私たちは皆、「別の側の意識」で、
生きている人生を持っているのだ。
多次元的な生である。
それを、この日常意識では、
覚えていないだけなのである。
……………………………………」

松井雄『砂絵Ⅱ: 天使的微熱、あるいは脱人間の意識変容』(近刊)

 

 そこには、文明化された現代人たちが、呑気に「異世界」などと言っているものとは程遠い、真に異次元的な、異形の世界があるのです。
 実際、そのような呑気な人々が、人間的なものとかけ離れた、ほんとうの異次元の異形を目の当たりにしたら、気が狂ってしまうでしょう。

 また、シャーマニズムのメディスンでテーマになる「浄化」についても、ヒクリ(ペヨーテ)は、特異な性格を持っています。
 ヒクリには、アヤワスカマジック・マッシュルームに較べて、人間的情緒に関わる部分が、より少ないと言えます。
 ヒクリは、それが育った、灼熱の砂漠のように、熱く乾わいています。
 そのため、人間的情緒や感傷に付き合う要素があまりないのです。その分、別の層/次元から、人間的情緒をまぶしく照らし出し、乾かし、解放する力を持っているとも言えるのです。
 また、同じように、肉体的にも、別の層からの浄化と、特異な熱エネルギーの照射があります。
 歴史的な記録の中に、ヒクリをよく使っていた部族について、その勇猛果敢さについての特記があったように、それは、一種、超人間的なエネルギーとパワーと与えてくれるようでもあるのです。
 それは、苛烈で、戦士的な性質を持っているのです。

 さて、以上、ヒクリ(ペヨーテ)について色々と見てきましたが、当然、これは、その無限に多様な現われのひとつでしかありません。
 その驚異は、人間的な尺度で、簡単に測れるものでもないからです。
 しかし、このようなわけで、ペヨーテ(ヒクリ)は、他のメディスンに較べて、より乾いて、「熾烈で、戦士的な」面をもつメディスンであるとも言えるのです。

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