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【概説 その2】「私」とさまざまな意識状態 ―変性意識・サイケデリック体験・体験的心理療法

 『【概説 その1】「私」とさまざまな意識状態 ―夢見・フロー体験・至高体験』では、私たちがもつさまざまな「意識状態」について見てきました。
 身近なものから、遠大なものまで、各種とりあげてみましたが、このように、「意識状態」というものが、私たちの人生に影響を与え、その創造性や質(クオリティー)を大きく変えていくものであることを感じていただけたのではないかと思います。これら「日常意識」以外のさまざまな意識状態を、「変性意識状態」と言います。

 この「変性意識状態」という言葉は、チャールズ・タート博士による編著によって広まりました。1969年のことです。当時は、向精神性物質(幻覚剤)による「サイケデリック体験」が流行しており、多くの人が、不可思議な意識変容の体験をしたからでした。そして、それに連動して、東洋的な瞑想、シャーマニズム、新しい体験的心理療法なども、人間の意識を拡大する方法論として注目されたのでした。そのようなさまざまな「意識状態」に、理論的な枠組みを与える言葉として、「変性意識状態(ASC)」という言葉がひろく受け入れられたのでした。
 「サイケデリック psychedelic」という言葉自体が、そのような新しい意識状態、「深い心が顕れ出る」という意味を含ませた造語なのです。精神科医のハンフリー・オズモンド博士によって提唱された言葉です。
 ところで、奇しくも同じ1969年に、「自己実現」で有名な心理学者マズローとともに「トランスパーソナル心理学」を立ち上げたサイケデリック研究の権威、スタニスラフ・グロフ博士は、「幻覚剤」と言われる「LSD」の効果について、むしろ「幻覚」とは逆のことを指摘しているのです。

「それら(LSD)は、他の薬物のように、薬物特有の状態を誘発するのではなく、むしろ、無意識的プロセスの特定しえない触媒もしくは増幅器として働き、人間精神エネルギー・レベルをあげることにより、その深層の内容と生得的なダイナミクスを顕在化させるのである」

(グロフ『自己発見の冒険』吉福伸逸他訳 春秋社)

 LSDは、幻覚でなく、深層意識そのもののリアリティ(深い現実性)を開示してくるというわけです。
 さて、そんな幻覚剤について、オズモンド博士の知人であり、当時著名な作家であったオルダス・ハクスリーは、幻覚剤メスカリンを服用した体験記『知覚の扉』を世に問い、サイケデリック体験の可能性と興味深さを、世間に知らしめました。『知覚の扉』の中で、ハクスリーは、そのメスカリン体験を以下のように記しています。

「…私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造の朝に見たもの―裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇蹟であった。イスティヒカイト。存在そのもの―エクハルト(※ドイツの神秘家)が好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在―ただし、プラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、奇怪な誤りを犯したように思われる。だから、可哀想な男プラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは―はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を超えた、しかし、自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる…というものであった。」

ハックスレー『知覚の扉』今村光一訳、河出書房新社

また、

「…私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思った―だが、その呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。グレイス(神の恩寵)、トランスフィギュレーション(変貌、とくに事物が神々しく変貌すること)といったような言葉が、私の心に浮かんできた。むろん、これらの言葉は、私が眼にする外界の事物に顕わされて顕われていたのである。バラからカーネーションへ、羽毛のような灼熱の輝きから生命をもった紫水晶の装飾模様―それがアイリスであった―へと私の眼は少しずつ渉っていった。神の示現、至福の自覚―私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。…仏陀の悟りが奥庭の生垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私が眼にしていた花々も、私―いや『私』という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の『私でない私』―が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。」

ハックスレー(同書)

 存在の神秘が剥き出しにされるような啓示的な体験であったのです。「私」という狭い世界(フィルター)を超えた宇宙が、そこには開かれていたのです。
 このように「意識状態」には、私たちの普段の「日常意識」の超えた、超越した、想像を絶するものも多数存在しているのです。
 そして、それらは、私たちの普段の人生から縁遠いものではなくて、私たちのこの日常生活や探求と地続きで存在しているものなのです。
 次に紹介するのも、そんな身近な、筆者自身の体験談です。南米で、シャーマニズムのフィールドワークを行なっていた時のことです。
 ブフォ・アルヴァリウス Bufo Alvarius というヒキガエルの毒を摂取したときの体験です。この毒の中には、5-MeO-DMTというサイケデリックな成分が含まれているのでした。それは、筆者を、想像を絶する、思いもよらないところに運んで行ったのでした。

「……………………………………………………
成分が急速に血中で膨張していくのがわかる。
押し流すような眩暈とともに、氾濫するものが身体中にひろがり、
急速に知覚と身体が溶解していく…
急激に高まった海水が防波堤を越えるように、防波堤を決壊させるように、過剰なエネルギーの流れが超過してくると、
すべての知覚は溶け去り、
意識はへりをなくし、
意識は一気に「宇宙大に拡大」していく…
時空を突き破っていくような、
凄まじい爆発的な拡張感…
轟音のように膨張するエネルギーが一気に突き抜け、
人間の存在はかき消され、
消滅し、
意識はへりを喪ってしまう…
そして、
瞬時にして「宇宙そのもの」になっている。
広大な「宇宙そのもの」。

非時空・非次元の巨大なエネルギーとへりのない意識。
「宇宙そのもの」。

そして、
「神」になっている。

主語はない、宇宙そのものである神。

「完全である」という以外に言葉がない。

宇宙自体であり、
すべてが完全であるという至福。
踊るシヴァ神のようだ。

人間が決して想像することのできない「完全さ」であり、
「完璧さ」である。
至福の上の至福の上の至福。
至高の極瞑想の至福。
最上級の頂点の向こうにある至福。
(サッチダーナンダ/存在意識至福)

神であることの完全な至福。
「完全」であり、
自分のよろこばしい意志で、
すべての時空が踊るよう、
遊ぶよう創造された。
この宇宙のすべてを創った神である自分がわかる。

生も死もない。
この完璧な完全さの中では、
創造も破壊も等しくある「完全さ」だ。
自分の意志で、
この宇宙は創られた。
笑いと歓び、澄んだ意識と、
極相にひろがる舞踏。

何も「他」というものがない完璧な「完全さ」。
生も死もない。
宇宙を創っている自分がわかる。
つまりは、
もともと、自分は「この神であったこと」を思い出している。
はじめは、「神であった」のだ。

やがて、だんだんと形象が戻ってくる。
舞踏のように、
極相から極相へとめぐるもの。
そして、まわりの皆(○○ちゃんも○○)も、宇宙そのものであり、神である。
すべてが、神である。
すべては、本源の、他のない神である。

だんだんと、世界が戻ってくる。
そして、「人間」「この私」であることもまた善い。
「この私」「人間」であることと、「神」であることに矛盾はない。
イエス・キリストの意味合いがわかる。
私たちは、皆、イエス・キリストだ。
地球を遥か下方に見るようだ。
………………………………………」 

拙著『砂絵Ⅱ 天使的微熱、あるいは脱人間の意識変容』より

 このような体験が、実際に起こってくるのです。
 そういう体験は、私たちの人生観を変えてしまうのに、充分な力を持つものでもあるのです。

 ところで、そのようなさまざまな「意識状態」については、非常に古い時代においても、一部の優れた人々の中では、すでに気づかれていたことでもあったのです。
 アメリカの卓越した哲学者ウィリアム・ジェイムズは、その著作『宗教的体験の諸相』の中のよく引用される文章の中で、以下のように書き記しました。

「…(それは)私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめている時の意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとまったく違った潜在的ないろいろな形態の意識がある、という結論である。私たちはこのような形態の意識が存在することに気づかずに生涯を送ることもあろう。しかし必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう形態の意識がまったく完全な姿で現れてくる。それは恐らくはどこかに、その適用と適応の場をもつ明確な型の心的状態なのである。この普通とは別の形の意識を、まったく無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものではありえない。問題は、そのような意識形態をどうして観察するかである。―というのは、それは正常意識とは全然つながりがないからである。(中略)いずれにしても、そのような意識形態は私たちの実在観が性急に結論を出すことを禁ずるのである」

ジェイムズ『宗教的体験の諸相』桝田啓三郎訳(岩波書店) ※太字強調引用者

 このようなさまざまな意識状態(変性意識)が存在していて、私たちの「日常意識」の外をとりまいているのです。そして、それらの変性意識は、私たちの宇宙の真のリアリティ(現実性)とさまざまにコンタクト(接触)しているのです。実際、ジェイムズ自身、或るサイケデリックな体験から、このような着想を得ているのです。

 また、ジェイムズは、「正常意識とは全然つながりがない」と言っていますが、たしかに、それらの意識は、異次元的/異種的/異星的な意識なので、そのようにも感じられますが、これらの「意識 consciousness」は深いところでは、さまざまにつながっていると言えるのです。そのため、これらの体験が私たちの人生に深い影響を与えてくることになっているのです。
 ただ、もう少しわかりやすい形で、私たちの日常意識と関連し、影響を与えてくれる「変性意識状態」もたくさんあります。
 1960年代に、サイケデリックスと同時代に流行った、新しいタイプの心理療法、「体験的心理療法」などでは、そのような変性意識状態がさまざまに現れてくるので、私たちの変容に資する効果が、わかりやすくなっているのです。
 その例として、次に、体験的心理療法(ブリージング・セラピー/ブレスワーク=呼吸法を使った方法)で体験した筆者の変性意識体験を引用してみたいと思います。
 そこで、筆者は、期せずして、自分の胎児の頃(子宮内の時代)に退行していくという体験をしたのでした。そのことで、心の奥深いところにあったトラウマ的な葛藤から解放されていくことになったのでした。

「……………………………
………………………
…………………

いつものように音楽に気を紛らわし、
過換気呼吸に集中していく…過換気自体は不快なだけ、
苦しいだけといってもいい…探索するよう、手さぐりするよう、
感覚と手がかりを求め…呼吸を続けていく

……………
………………
熱気が高まってきて…
顔や皮膚にちりちりと、
蟻が這うよう痒さが走る…

茫漠とした不安と閉塞感…
さきの見えない不快感が、
つのっていく…

呼吸に集中し…
気づきを凝らし…
内側から何かのプロセスが、
起こってくるのを見つめている…光の斑点が、
眼の裏に交錯し、
輪舞する…

どのくらい経ったのか…
汗ばむ熱気の中、
苦しさは若干薄まり…

痺れとともに、
遠いところから満ちて来る…
生理の深いざわめきに、
気づいていく…

呼吸を続け、
内部の感覚の波を増幅し、
持続させることに、
集中していく…

いつものよう、
手足のさきが痺れはじめ…
熱気の中、まだらに現れる、
奇妙な汗ばみ…
冷たさの感覚… 
とりとめのない記憶や映像が、
夢の破片ように去来する…

どこへ向かっているのか、
予想もつかない…
しかし、何かが、
満ちてきている気配がある…

内側の遥かな底に、
荒れ騒ぐよう、
何かが高まり、
生起する感覚…

呼吸を続け…
意識が、途切れがちになる…
呼吸を保ち…
意識をただし…
気づきを凝らし…
持ち直し

…………………………
………………
…………

どのくらい時間が経ったのか…
明滅する意識の向こうに、
ふと気づくと、そこに、
「胎児である自分」
がいたのである…

それは記憶の想起ではなく、 
今現在、今ここで、
「胎児である自分」
なのであった… 

感じとられる、
肉体の形姿が、
からだの輪郭が、
いつもの自分とは、
完全に違っている…

巨大な頭部に、
石化したよう屈曲した姿勢…
激しく硬直する腕や指たち…

手足のさきが堅く曲がり、
樹木のよう奇妙な形に、
ねじくれている…

からだ全体が、
胎児の形姿、
姿勢である…

そして、気づくのは、
今ここに、
自分と重なって、
「その存在がいる」
という圧倒的な、
臨在の感覚である…
その存在の息吹である…

それは、
自分自身である、
と同時に、
かつて、そうあった、
「胎児である自分」
との二重感覚、
だったのである…

「いつもの自分」
の意識と、
「胎児である自分」
の感覚(意識)とが、
二重化され、
同時に、今ここに、
在ったのである…

分身のよう多重化された、
肉体の、
感覚の、
意識の、
圧倒的に奇妙な現前が、
在ったのである…

そして、
ふと気づくと、
手足は、異様なまでの、
硬直の激しさである…
その筋肉の凝縮は、
普段の人生の中では、
決して経験しえない類いの、
岩のような硬直と、
巨大な圧力である…

自分の内部から、
このように途方もないエネルギーが、
発現している事態にも、
驚いたのである…肉体の深い層から、
生物学的で火山的なエネルギーが、
顕れていたのである

…………………
…………

何の感覚か…
まとわり、ぬめるよう密閉感… 
粘膜のよう、煩わしい、
冷たい汗ばみ…
奇妙な臭い…

内奥に、深く凝集し、
細胞の呼吸のようにゆっくりとした、
時間のすすみ…
生理的な、生物的な渇き…

胚のよう、種子のよう、
濃密に凝縮する、
発熱の震え…

暗闇にぼうと浮かぶ、
輝くような始源の姿…
未明の宇宙的なけはい…

肉と骨の奥処に、
岩のよう苛烈な硬直の軋み…

烈火のよう力のエネルギーが、
尽きることない火力が、
終わることなく滾々と、
放出されていたのである
…………………………………
………………………」

拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』より

 さて、このセッションは、「胎児としての自分を見出し、体験する」ということを体験の絶頂として、身体の猛烈な硬直もそれ以上には進まず終息に向かっていきました。そのことで、心身の奥深いところにあったトラウマ的な葛藤から解放されていくことになったのでした。セッションの翌朝、「羽毛のように軽く」フワッと身を起こした自分にびっくりしたのでした。

 体験的心理療法にも、さまざまな変性意識状態の深浅があります。
 しかし、それが正統なものであれば、(それらを謳ったNLPコーチングのような表層的な次元のものとは決定的に違う)真に深層意識に触れられるものとなっているのです。
 また、今の巷によくある浅いゲシュタルト療法ではなく、筆者の行なっているような「深化/進化型のゲシュタルト療法」でも、日常意識とつながりを持ちつつも、決定的に深い次元の深層意識にコンタクト(接触)し、そこからさまざまな変容を引き出すことも可能になっているのです。

 さて、以上、私たちが持っている、さまざまな「意識状態」を見てきましたが、「日常意識」以外のこれら変性意識状態が、私たちの創造性や世界観、人生の質(QOL)に、どのように変容を引き起こしていくか、少しイメージをつかんでいただけたのではないかと思います。

 ただ、このようなさまざまな「意識状態」を、真に創造的な能力に変換させるには、私たちの心の或る力が必要となります。
 それが、「アウェアネス awareness /気づき」の力です。
 そのアウェアネス awareness の力が充分鍛えられていて、さまざまな意識状態を有機的に結びつけることができていくと、私たちの内的宇宙は、ひろがりをもったものとして定着していくことになるのです。
 そのあたりの「アウェアネス awareness /気づき」については、別の記事にも少しまとめているので、ご覧いただければと思います。↓


【ブックガイド】
私たちの意識状態に秘められた途方もないパワーや多元性については、実体験事例も踏まえた拙著、
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧いただけると幸いです。
また、ゲシュタルト療法については、
『ゲシュタルト療法ガイドブック 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。


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