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crossasia
2024年5月2日 21:09
大阪の「堀」にまつわる子供の世界大阪には、「堀」という文字の入った川が多い。立売堀、江戸堀、京町堀、土佐堀、道頓堀、土佐堀といったところだ。そしてこれらの「堀」は大阪城の外堀であったことに由来しているという。豊臣秀吉は、よく言えば用心深く、悪く言えば小心で、大阪城の外堀を十重二十重に巡らして大阪城の守りを堅固にしようとしたのだろう。そんなことで、結果的に大阪城の外堀は、大阪城の天守閣のある地域
2024年4月17日 20:32
東大といえば、加賀藩ゆかりの赤門東京大の本郷キャンパスに、東京大学のシンボルとも言われる赤門がある。この赤門は、正しくは旧加賀屋敷御守殿門というもので、文政10年(1827)年に建立された。元加賀藩上屋敷の御住居表御門だったものであった。文政10年(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女、溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れをしたが、赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものであった。
kyotoK
2024年4月12日 10:45
「おいでやす」のメロディ、わたしを発掘に駆り立てた本当はよく知ったものをテーマに書くべきとわかっているが、どうしてもすぐに書きたかった。ここは京都市中京区の三条会という歴史ある商店街だ。母の実家の近くで、幼いころからなじみの商店街だ。当時はパチンコ屋や麻雀屋があり、映画館も複数あり、八百屋や魚屋、乾物屋、荒物屋などが肩を寄せあう。庶民的で活気に満ち、往来も多かった。当時は多くの自転車が走ってい
2024年3月29日 13:29
葛飾北斎は、生涯なんどの引っ越しをしたということですが、その引っ越しのいずれもが葛飾周辺で、江戸を離れても川を一歩渡ったという程度ですので、基本的には江戸で何回も引っ越したということだと思います。会社に勤めていて何度も転勤で引っ越したという人もいますが、私の場合は主として自分の意志と、若干仕事関係で都合のいいところに引っ越したのですが、およそ20回くらいは引っ越したと思います。私の幼少期のことも含
2024年3月31日 16:42
初めて知った球団名私は小学校3年の頃、大阪の梅田から近鉄南大阪線沿線に引っ越すこととなった。ほとんど梅田、淀屋橋、肥後橋辺りを遊び場にしていたので、かなり文化的環境にはギャップを感じた。この近鉄南大阪線は、私が子供なので最低運賃は5円で、大阪の地下鉄はいくらだったか忘れたが、その時は電車賃が安いと感動した記憶がある。そのころ、近鉄南大阪線ではラビットカーという新鋭の車両が登場したのだ。それが登
2024年4月5日 21:21
おそるべしモノの弾み!まったく私的なつまらない話なのだが、モノの弾みは恐ろしい。真夏の昼下がり、にわかに空腹に陥って近くに適当な店がないかと見回したが、辺りに店らしいものは見当たらない。少し遠くにうなぎ屋ののぼりが見えた。正確には今日は土用ではないが、ザクッとはほぼぴったりな季節なので、いつもならそれで決まりというところだった。ところがその日は、その選択では何かしっくりこなくて、もっといいも
2024年4月13日 10:23
京都には歴史、文化という商品が無限に眠っている京都は、東京や大阪から見るとずいぶん値打ちのある街だ。なぜかと言えば、世の中には京都にしかないものが多いので、どうしてもそれが必要な場合は京都で手に入れるしかない。例えば由緒ある神社仏閣も、国宝や重要文化財もその多くが京都にある。そもそもいくら京都にしかないといっても、まさか国宝級の神社仏閣を東京や大阪に運ぶこともできない。だから京都にしかないもの
2024年4月7日 16:42
母方の祖母は紀州の印南出身(いなみ)だったずいぶん昔の話だが、私の祖母はとても利発な女性で、しかも当時の漁場出身では稀なことに女学校を出ていたので、大層望まれて大阪の船場の商家に嫁いだという。印南の家は私の祖母の実家であるので、昔は親戚の中でもそこそこ付き合いがあったが、次第に交流は少なくなっていった。私が小学生の頃は、夏の紀州の海が好きで、私がいつも行きたがったからか、二年に一度程度は印南を
cyber kinokawa
2024年3月22日 18:38
▼今でこそ、死者を葬る儀式のことは全国ほぼ共通して「葬儀」や「葬式」などと呼ばれていますが、管理人が小さい頃(昭和後期)には祖父母はそのような呼び方をしていませんでした。▼かつての人びとは、葬儀や葬式のことを何と呼んでいたのでしょうか。これには、「そもそも葬儀、葬式とは何か」あるいは「どこからどこまでが葬儀、葬式なのか」という定義の大問題が関係しており、当然この範囲には地域差があるので、現在も定