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創作小説

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創作と書いておけば、何を書いても良いのではないかと思いまして
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#備忘録

ワスプ / 創作

ワスプ / 創作

テーブルの上に置かれた瓶一杯分のハチミツ。それこそが家の中に伝わる、唯一の愛情だった。

国内には凡そ4500種余りの蜂が生息する。そのうちミツバチと類する蜂は2種生息しており、原生種であるニホンミツバチ、外来種であるセイヨウミツバチがいる。
アリ同様、巣内には厳重な社会統制が敷かれていて、ひとつの巣には女王バチを筆頭に数万の働きバチ、通称ワーカーが犇めき、繁殖道具としてのオスバチが数百、暮らしを

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春来たりなば / 創作

春来たりなば / 創作

「おじいちゃんによろしくね」
娘からの言葉を貰って改めて、私は人の親になり、私が父と呼んでいた人間は別の名前を授かっているのだと悟った。キャリーケースを慣れない様子でゴロゴロと転がす娘が、段々と小さく、駅のホームへと消えていく。助手席に座る妻が少し寂しそうな顔をして、振り返らない娘に向かって手を振っている。一方私はというと、つきものが落ちたような感覚で、グローブボックスから煙草を取り出し、口に咥え

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Beluga. / 創作

Beluga. / 創作

1957年11月3日ーーー。
この日はソ連がスプートニク2号を打ち上げた日であり、世界初の人工衛星として大きな注目を集めた。搭乗していたのは人間では無く、一匹の犬だった。その名をライカという。
ライカはもともとモスクワ生まれの野良犬で、数ある動物の中から適応能力の高い犬が選ばれ、数頭ばかり、宇宙への渡航を担われたうちの一頭だった。
有人飛行を目指した地球の周回軌道を巡る旅行は当時の技術では片道切符

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やさしくない / 創作

やさしくない / 創作

「優しいばっかりが愛じゃないと思うんだよね、俺は」

そう友人に忠告された時点でもう遅く、彼女と別れてから早くも2年の月日が経っていた。ラストオーダーの時間も過ぎたグラスの中身も、氷がそのほとんどを埋め尽くす。中に注がれるのは烏龍茶のままで、至って素面にも関わらず、裏腹に顔が紅潮しているのが分かる。人が少しづつ散り散りに消えていき、その度に友人の声が繊細に耳を擽った。隣の宅に聳えていたジョッキの塊

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Async / 創作

Async / 創作

37℃の微熱。緩く挟んだ脇の隙間から、弱々しい電子音が聞こえる。長年付き合った彼が唯一忘れていった体温計もそろそろ寿命が迫っていると見えて、その音も随分と弱々しく聞こえる。生まれつき脇で計る家系に生まれた私は、ただ彼が口腔で体温を計るという部分に拘って、付き合っている彼に倣って私もそうしていた。しかし数年前に離別してからというもの、元の鞘に立ち返り、脇で計ることに決めている。
薄く柔らかに見える、

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あのこの髪の毛 / 創作

あのこの髪の毛 / 創作

フックの2段目にシャワーのヘッドが掛けられているのを見て、大きく溜息をついた。こういう所が嫌いなんだ、そう思いながらシャワーヘッドをもとの位置に戻す。箸の持ち方が何だかおかしくて、居酒屋ではネギトロ巻きを頼みながら 「ネギが嫌いなんだ〜」と言いながら箸先で丹念にネギだけをつまみとったかと思えば、醤油差しの端っこにネギを擦り取り残骸もろとも口に運ぶ。終電の計算というものがなく、サークルに私を誘った、

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桜桃忌は愛をも嫌う / 創作

桜桃忌は愛をも嫌う / 創作

借りたものは返したいけれど、今更返す宛先がない、というのも、おかしな話だ。
久方ぶりに取り出した書籍は、天の部分にうっすらと埃を積み上げている。背表紙の部分に貼られているラベルは劣化が進み、貼り直したテープが徐々に黄変しながらに層を造っている。建物の中に40年ほど置かれていた割に、中身の劣化も少ないことから、如何に生徒によって手に取られていなかったのか、ということがその見てくれより窺い知ることが出

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高層ビルから降りておいでよ / 創作

高層ビルから降りておいでよ / 創作

不特定多数の人間を前にして、暗夜の中で彼女が呟く「誰か私を抱きしめて」 という叫びの宛先が自分自身に向けたものであるなら、と思いつつ、温くなった湯船に顔を浸ける。狭いアパートの狭いバスタブの中で耳を澄ませると、近隣の部屋の生活音が振るえて伝わるのが聴こえて、この頃は湯船に浸かる度、しばらくはこうしているようになった。昔から水泳が苦手だ。というのも、顔を水に沈めるということが極端に苦手だったことに起

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狭い部屋とブルーハーツ / 創作

狭い部屋とブルーハーツ / 創作

1000のバイオリンを5周ほど聴いていたら朝になった。友人と近所の居酒屋に飲みに出掛けて、よく分からない時間に眠ってしまったらしい。酔いが廻ると顔が浮腫んで、鼻が詰まる。ふらふらと部屋の中を動き回り、シンクの前で水を飲み乾した時点で時刻は3時だった。いつ眠りいつ起きたところで、生活への支障は何もないのだけれど、このまま眠ってしまえば、目を覚ますのはきっと翌日の昼頃くらいにはなる。もうすぐ夏が来るか

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来たる朝にはシーツをかけて / 創作

来たる朝にはシーツをかけて / 創作

幼かった私は、血の気も失せた祖母の顔をじっと見つめていた。白粉の塗りが甘い頬骨と耳の間の素肌は亡くなった人間の血色をこれでもかと表しており、鼻先から曲線を描くように綺麗なグラデーションになっていた。生まれてからよく私の手を引いた柔らかい掌も、生ゴムを押しているような感覚で、すっかり硬くなっていたことをよく覚えている。
こうなる2年ほど前から祖母は重い心臓の病を患っていて、亡くなるまでに三途の川と現

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帰途 / 創作

帰途 / 創作

ラーメンと煙草、どっちを取るかと考えてからしばらく考えた結果、ラーメンも食べたし煙草も吸った。ATMの便利さを凌駕する物臭な身体は財布から小銭が消えるまで、金を下ろそうとはしない。そういえば充電コードも切れかけていたし、もう一枚だけ1000円があるはずだから、と思って財布を覗く。出てくるのは感熱紙の文字も消えかかった、明らかに不要なレシートの塊ばかりだった。残されるは数十枚に及ぶ小銭と、お薬手帳に

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朝が来るなら / 創作

朝が来るなら / 創作

お腹が減ったわけでもなければ、制御不能な食欲に襲われたわけでもない。眠る準備を済ませたのは、もうだいぶ前のことだ。けれどもせっかくの週末、ほぼ眠り倒して使われた時間に対しては堪えきれないやるせなさがあった。こんな夜中にアイスコーヒーを用意して、いつか食べ損ねたブリュレを食べ始める。明日は普通に仕事があるし、月初に提出しなければならない書類に手付かずのまま週末を迎えたから、明日は出勤をだいぶ早めなけ

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傘はないから 濡れて帰ろう / 創作

傘はないから 濡れて帰ろう / 創作

腕の中にするすると入っていく透明な液体をぼんやりと見つめながら、これっぱかりの数滴が果たして病気に効くのだろうかと、ぼんやりと考える。シリンジから既に出ていったもの達は今身体のどこら辺を流れていて、やがてそれはどこに行き着くか、また取り留めもないことを考えながら腕から胸元に掛けてを目で追う。追うと云うより、目線を移すの方が正しい。ここまでたった1秒ばかりの動作だが、体内を流れる血液の速度は秒速1メ

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フルオロメトロン / 創作

フルオロメトロン / 創作

「ライブハウスで会った男とライブ帰りにヤったけど気持ちよくなくて、バンドもろとも嫌いになった」という話を何となく聞きながら、それは違うんじゃ、と思った。決して口には出さないけれど、目口鼻の切り替えがそれを物語っていたと思う。世間話の傍ら「このバンド良いよ」というひと言で進めたことを皮切りに、音楽に飽き足らず様々な部分で身を捧げてしまう彼女を見ていると、一番綺麗な縄跳びを同級生に取られてしまった小学

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