帰途 / 創作
ラーメンと煙草、どっちを取るかと考えてからしばらく考えた結果、ラーメンも食べたし煙草も吸った。ATMの便利さを凌駕する物臭な身体は財布から小銭が消えるまで、金を下ろそうとはしない。そういえば充電コードも切れかけていたし、もう一枚だけ1000円があるはずだから、と思って財布を覗く。出てくるのは感熱紙の文字も消えかかった、明らかに不要なレシートの塊ばかりだった。残されるは数十枚に及ぶ小銭と、お薬手帳に貼ってくださいと渡された数枚のシール。そんなものは絶対に貼らないし、思い出なきレシートにも用はないのだが、捨てるタイミングを逃した結果、だいぶ前から隙間を無くしていた。これらを財布から除いてしまえば、たちまち財布は空になる。こんな生活は久しぶりで、今日は何だか学生の頃と同じ風の匂いがする気がした。小銭よりも札を先に消費する癖が変わらないことに輪をかけて、不要物を捨てずに財布に雑多に詰め込むものだから、大して中身もない私の財布はずっと重たい。
秋雨の降る街。関東津々浦々を舐めとった風は私の住まう地方に最後に流れ着く。田舎に住むものの強みというのは星が見えることくらいだから、曇天の冴える空が続く昨今はどうしようもない。今季はもうオリオン座もスターリンクすらも拝めないことを察したから、せっかくホコリを払った双眼鏡を再び棚の中に戻した。
二三日前から風邪を引いている。転勤を経験してから初めて仕事を休んだ。微熱でも行けます、と電話口で呟くと、会社の重役に「休みなさい」と宥められた。重い身体を引っ張ってでも来なさい、と言われるよりかはかなりマシなことだし、それはそれでこちらのことを考えてくれているのだろうが、なまじ中途半端に動ける身体を引っ提げているために、不本意ながら手に入れた休日は地獄である。絶望的にやることがないのだ。持ち帰り仕事を片付けてしまおう、と思ってパソコンを立ち上げても、37度の微熱を前にするとどうも頭が働かず、Windowsお手製の草原を眺めながら午前中の静かな時間を過ごした。病人に残された道は眠ることのみであるから、シーツを張り替えた布団に一度は勢いをつけてダイブした。視界に広がるのは空っぽの天井と、壁に貼られた在りし日のライブのフライヤー。よく意識に入れていなかったが、あのバンドが解散してからもう5年の月日が流れている。解散直前、「メンバーそれぞれ、思う道に戻ります」と言っていたがそれ以降、個々のSNSも息をしなくなった。集団に溶け込んだような顔をしながらも尚息苦しさを感じている私と同じく、彼らも普通に働いているのかもしれない。
会社に持っていくはずだった弁当のおかずは辛うじて喉を通ったものの、朧気に悪い体調は生きることに前向きでないようで、三口以降を受け付けなかった。震える手で出窓を開けて、残り数本のガラムを吸う。当初不動産屋にはベランダ付きの6畳を所望した。しかし大して先方の労働意欲は無かったらしく、申し訳程度のフラワーボックスが付いた物件を宛てがわれた。転勤そのものに疲れていた私は、よく分からないまま契約書にサインをした。服を買いに行く時も、試着室で試着をすることさえ嫌がる私のことだから、何軒も内見をするというのはかなりレベルの高いことだった。新生活という切符をドブに捨てるような諦め。それをこの部屋が象徴している。
北向きに設置された窓のおかげで、冬の到来はいち早く知らせてくれるような部屋である。この部屋はいつ何時も寒い。風邪を引いた原因は俄然ガラムによるものであることは間違いない。数センチの隙間にギチギチに詰められたメンソールで喉が引き裂かれるように傷んで、やっとの思いで一本吸いきる。北風に押し流されるようにして戻ってくる吐いた煙が、6畳1間の部屋の中で行き場を失って、部屋の中で薄靄を作っていた。早くこの部屋から出たいと、私はずっと願っている。
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