見出し画像

傘はないから 濡れて帰ろう / 創作

腕の中にするすると入っていく透明な液体をぼんやりと見つめながら、これっぱかりの数滴が果たして病気に効くのだろうかと、ぼんやりと考える。シリンジから既に出ていったもの達は今身体のどこら辺を流れていて、やがてそれはどこに行き着くか、また取り留めもないことを考えながら腕から胸元に掛けてを目で追う。追うと云うより、目線を移すの方が正しい。ここまでたった1秒ばかりの動作だが、体内を流れる血液の速度は秒速1メートルというし、もう既につま先くらいまでたどり着いているのかもしれない。副作用や他諸々を決まり口調で話す看護師の話も、ほとんど耳に入ってこなかった。

頼みもしないのに陽が昇って、沈むことを日々絶えず繰り返すから、私達の間には「朝」と「夜」という言葉が存在する。もし仮にこのメカニズムが地球に届いていなかったとしたら、光という言葉も、明かりそのものも、存在していないんじゃないかと思う。故に私にとって、外から漏れ出る光というものには絶大なるこだわりがあり、飲食店へ行っても、友人宅へ行っても、目的地として窓際を選ぶのだった。

受付前に設置されたヒーターのボタンに残された拭き跡はまだ新しかった。10月という時期に似合わない寒さが列島中を包んでいるのだから無理はない。初めこそ少し肌寒い程度と言っていた天気予報も、今日に近づくにつれて日に日に予想最低気温の数字を下げていった。前日になってテレビニュースが暖房器具の使用を進め始めたくらいだから、このヒーターも慌てて引っ張り出されたものであるらしい。確かに、10月だと言うにしては嘘みたいな寒さだ。おまけに雨まで降り始めたから、尚のこと暖房は必須である。

診察を待つ人々は受付の手前をぐるりと囲むように座っていて、対岸の窓辺はというと、誰も座っておらずガラガラだった。ちょうど入口が見渡せる位置に腰掛ける。大雨という程ではないけれど、絶妙に外に出たく無くなるような分量の雨が小一時間ほど降り続いている。ヒーターの温熱がこちらまで届いていないことに増して、アルミサッシの隙間から冷風が吹き込んで少しだけ寒かった。
無造作に置かれた傘立てを見ながら、そういえば傘を畳んでこなかった、と淡々と思った。今頃畳むためだけに外へ出るのも癪なので、じっと見つめるだけにおさめる。

受付番号札の紙の小ささはいつだって心もとない。カウンター前で通院客と関係者は斜向かいになっているし、奥まったところに座っても呼ぶにも困らない距離だというのに、規則性のない番号を引っ張りあげる造作をいつまで続ければいいのか、この一連の習わしは理解に苦しむ。73番が診察室に向かうと、次に席を立ったのは84番で、こうなると数字の並びがよく分からなくなるのだった。整理番号で呼ばれた人たちがバタバタと動き始めると、交ぜられた空気がこちらまで漂ってきた。アルコール独特の匂いが両鼻を行き交って、寒さがより苛烈に感じられる。

入れ替わりで数人程度が院を後にするのが見えた。一時間くらい待たされた人たちだろうか、上空から降りしきる雨の存在に気が付くと誰もが怪訝そうな顔をしているのが、窓越しに分かった。その中のひとりが傘立てを見遣ると一本の傘を取り出して市街へと消えていくのが見えた。持ち手が革張りで、金色のステッチがあしらわれた如何にも高級そうな傘。紛れもなく私の傘だった。それは、昔付き合っていた人に貰った物だった。生まれつき野生人的な気質があった私は、傘を差すのが嫌いだった。何もかもハンズフリーだとかワイヤレスだとか言われている時代に、雨露凌ぐ方法は長い時間が経っても変わらない。ただでさえハンドバッグで片手が塞がれている状況で、雨傘の存在によってもう一方の手が塞がれてしまうのは、あまりに効率が悪い。そう思う今も、傘に対する思いというのはあまり変わらない。

傘を貰った日も、丁度季節外れの寒さが立ちこめる冬の時期だった。別れ際だとしても貰い物であることに変わりは無いのに、随分と雑なあしらい方をしたと思う。「雨なんてもう降らないよ」と呟いた言葉通り、年末になるまで傘が必要になるほどの雨は降らなかった。ぽろっと呟いた言葉は呪いに近しいほどに効力があって、この他にも似たような場面に幾度も遭遇した。

傘がないから、歩いて帰る。一度他人の物を持ち出した人間が元の場所に帰しに来るなんて馬鹿なことがない限り、持たずして帰るのは当たり前のことだ。傘立てをしげしげと眺めて、立ち尽くすビニール傘を持っていこうか暫く考えたけれど、止めた。予防接種を終えた左腕が気持ち熱を持っているような気がする。髪の毛を掻き分けて水が頭皮に染み入る感覚も、モスグリーンのクルーネックTシャツが深緑色に濡れていくのも、あんまり悪いことではない。傘の持ち手に私の名前が入っていたことを、盗みを働いた彼は知らないはずだ。見るからに女性向けのデザインの傘だから、この雨が止んでしまえばきっと、彼はその傘をまた別の場所に置いて帰るに違いない。別れた人は今もこの街に住んでいる。さらに手頃な盗みを働くような人々だってこの街に住んでいる。これらの人間の手伝いによって私の傘がほうぼう旅をして、遂には彼の目の前に再び姿を表すかもしれない。雨が少しづつ強くなってきたのを感じるが、そんなことを考えると、濡れて家に着くのも悪くないと思った。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?