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【エッセイ】『哲学料理』赤黄緑紫



ー私と婆は【豚の餌】を共に漁った仲間だー


 誰と食べるご飯より、祖母(=婆)との食卓は何故か気持ちが落ち着いた。生きた心地がした。何故だろうー。

 婆の料理は、今思えば、あれは婆の作品だったのかもしれない。ちょっと普通ではない、独特の料理ー。名付けて婆の【哲学料理】。精一杯の敬意を込めてー母の日や祖母の日には足りない✿拙い文章でー。

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 私が幼い頃から、母は働いていて、私は二人姉妹の妹なので、姉が幼稚園や小学校に行くと同時に同居している婆に日中いつも預けられていた。そのため婆の行動パターンが、私には手に取るようにわかる。

 何かとパターンを踏むのが好きだった、婆。例えば、貰い物のお菓子の箱の中身。そいつが消費されてきて入れ物の端に隙間ができようものなら、保管してあった別サイズの缶とか箱を棚の辺りからおもむろに取り出してくる。そして、残りのお菓子をそこへ詰め替える。こうして婆は、常に残りのお菓子を大切に管理することを自らの使命としていた。また別の時はトランプで神経衰弱をすると、こちらが神経を削って勝負していても、「それと同じは彼処此処やなあ」、と、それを当然の“親切”として教えた。こんな風にして何かとこだわりの強い気質の婆は、自分のルールを守って日々の安心を得るのが好きだった。そして、逆に言うと普段から不安が普通より強かったんだと思う。人に見せびらかす為のこだわりではなく、飽くまで自分が元気で居るため、安心するための“こだわり”だった。 

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 婆の作る炒飯には、黄色い色がついていなかった。

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 白ご飯に胡椒と微塵の野菜が斑(まだら)に混ざったのが婆の炒飯だった。ネットで画像や情報を簡単に検索することができなかった30年前、婆はいつの日か見た頭にインプットされたままの想像上の炒飯像を呼び起こすかのように如実に形にした。それは、古代の人々がまだ見ぬ地球のイメージを脳味噌のシワに沿うて一線ずつ描き出していた浪漫のようにー、婆は婆で独自の表現をした。

 要するに、婆の炒飯は卵が入っていないのではなく、卵を混ぜるタイミングが普通と少しズレているせいで、生憎ご飯が黄色に染まらなくて、米が白のままなのだった。考えれば、このカラクリは難しくない。しかし、当初の幼い私にはこれが、摩訶不思議だった。

 しかしながらー。 この白い炒飯は、不覚にも私を癒やす力を持っていた。
何故ならばー。あの破茶滅茶に怒りっぽい祖父(=爺)をピタリと黙らせていたのだからー。


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 婆の夫の爺は何でもかんでも怒鳴り散らす昭和のジジイだった。その勢いは昭和を通り越して億万年前のジュラ紀を彷彿とさせる威勢。怒鳴る為に生まれてきた生物ー恐竜ーなのだと家族皆を黙らせ、すべてを諦めさせていたー、確固たる昭和の頑固爺。

 しかし、そんな爺が、この炒飯には文句も茶々も入れなかった。いつも怒鳴っている爺が、この一般的に言うと“間の抜けた”少し気の毒な具合の炒飯には何故だか一切怒鳴らず、当然のことのように受け流していたのだ。なぜ?私はこの光景に常に【違和感】を持ち続けていたー。爺も婆と同じく本当の炒飯の色を知らなかったのかー?いやいや爺は市場でわざわざ魚を買ってきて女衆に捌かせるほどのグルメぶりだし、たしか中国や海外にも出張で多く出掛けたことがあるー、多分おそらく本当の炒飯の“意匠”を知っていたはずー。

 昼食時、食堂に現れては大好きな水戸黄門にチャンネルを回し、画面に釘けになりながら慣れた手付きでソースを白い炒飯に回し懸ける、爺。受け入れるどころか、自分なりに白炒飯を茶色くアレンジして食べていた、さすがは、図太きティラノ・ザウルス!!!!

ちなみにー。この炒飯は家族内では当然の噂だった(噂を広めたのは私)。婆の炒飯が白いことを誰もが知りながらも、訂正する人もまた、誰も居なかった。そして同時に好んで食べたがる人も居ないのが、事実。仕事や園に出掛けている忙しい父母や姉が居ない家で、婆爺と共に私はこの【違和感】を抱きながら、水戸黄門が事件を解決するのを横目に、悶々と白い炒飯を食した。

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 30年の時を経て、ある正月の夜中、爺が老衰で死んだー。爺の死に目に居合わた父が話していた、爺は最後まで「ひょこ…ひょこ…」と婆の名前(ひろこ)を呼んでいたんだとー。まるで遠の昔に死んでしまった、爺の母さんを呼んでいるかのようだった、と父。

 それを聞いて白い炒飯を食べる爺を思い出すー。いつも恐竜みたいに吠えながら婆を罵っていた爺ーそれなのに死に際には、幼くて何もできなかった頼りない自分にすっかりと還り、仕舞には産声の如くオギャアと、婆を呼ぶー。もう生きられない力ない自分と、胎児のときに子宮の底から無力な自分を救いあげてくれた命の恩人である遠い母の記憶が、走馬燈のように蘇ってそして重なり捻出された、一言は婆の名前「ひょこ」ー。爺は婆を叱らないまま、安らかに亡くなった。

 そう知った私は、なんだか爺が死んだのに不謹慎にも、ほっと、してしまった。
婆にずっと怒り続けて御免の一言もなく逝ってしまった、水戸黄門が好きだったくせに、律儀でないよな、と愚痴りたくなるけど。恐竜の肩を持ちたくもないけどー。多分爺は死にながら、言葉には出来ない事に今更後悔しながら、自分が一人では何も出来なかった、白い炒飯さえも食べることが出来なかったことに、婆の名前を呼びながら実は気づいて命を燃やし、懺悔したんじゃないのかーと、私は大きく期待しこの気持ちを締め括り【違和感】にも、蹴りをつけた。おまけに、黄色い炒飯を決して作ることが出来なかった婆全てを亡き爺と共に許し、婆自身を丸く包み込む様に茶色いソースを婆の白炒飯に永遠にグルグルと回し懸けていたいー
そんな気持ちが私の中を駆け巡ったー。

 普通なら抱く必要のない【違和感】を抱き無駄に悶々とした日々、しかし、それ以上に私はこの【違和感】に癒やされることもできたんじゃないのかー。婆の料理は意味なく無かったよ、私と爺に栄養をつけ、そして、こんなに、優しい気持ちも運んでくれたよ、と施設で過ごす婆に伝えたい(婆、強く健在)。寧ろ白くて良かったよ、婆の炒飯が黄色でなくて良かった、紋白蝶みたいな、黄色と白の、おとぎ話を今、ここに綴ることができたー。

 こうして婆の料理が私の中で意味を持ったとき、心の中で婆の料理を【哲学料理】と、そっと名付けた。こんな風に✿自分で言うのも厚かましいけど、こんな素敵な辞書には載らない言葉がこの世には、多分、まだまだあるんやろうー。
 そしたら、な、人生はほら、捨てたもんじゃないかもしれない、よ。

今度会ったら、婆に。爺には天国へ私が登ったときに、そう、伝えてあげようー。



あかきみどりむらさき
2024ねん

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