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HKB(1)B29ノ通信ヲ傍受セヨ!0806陸軍短波無線傍受班



広島県の人口は全国1位だった?

 廃藩置県の後、初めて本格的な人口統計が実施されたのは1872年。その当時、日本の総人口は約3300万人でした。
 当時、県別人口1位はなんと「広島県」で約92万人。山口県が2位で約83万人、東京府は3位で約72万人でした。

 芸州広島藩は、瀬戸内海の一大流通拠点に位置し、商品経済が発達した富裕な藩で、多くの人口を養うことができました。紛れもなく、幕末の時点で広島藩は西国の「雄藩」だったのです。

広島県人には移民が多い?

 明治維新後、地租改正や松方財政などの影響で、多くの農民層のひとたちが貧困化しました。そのため、多くの広島県人は、活路を求めて北海道や海外などへ移民となって転出して行きます。

 海外移民が多い県のトップ3は、1位広島県(約11万人)、2位沖縄県(約9万人)、3位熊本県(約8万人)となっています。
(出典:1885~1972年の旅券発行数の累計データによる。JICA横浜海外移住資料館の資料より)
 
 広島県人に移民が多いのは、進取の気性に富んだ県民性だから、という言説を眼にすることがあります。しかし、生きるために仕事を求めて海外へ出たというのが実情ではないでしょうか。これは「転出超過全国1位」となった今日の姿とどこか似通っている気もします。

観古館と陸軍短波傍受班(別称・特情班)


 太平洋戦争開戦の前後、アメリカ合衆国へ移民した家族の中には、広島へ戻って来たひとたちもいました。
 そのなかには、「英語ができるから」という理由で陸軍の短波傍受班(別称:特情班)に動員され、アメリカ軍の無線を傍受する任務に就かされた女学生たちもいたのです。

出典:検証 ヒロシマ 1945~95 <11> 在米被爆者 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター (hiroshimapeacemedia.jp)

 その「特情班」があったのが、旧陸軍第2総軍司令部の置かれた「観古館」です。
 観古館は、旧広島藩主浅野家の美術館でした。泉邸(せんてい)と呼ばれた、現在の「名勝 縮景園(しゅっけいえん)」の敷地内にあり、1913年に国内初の私設美術館として開館しました。

 浅野家に伝わる和漢の古文書や刀剣、茶器類などが展示され、年間約4万人の来場者があったとの事ですが、原爆投下により完全に破壊されてしまいました。この場所は現在、「広島県立美術館」となっています。
                  出典広島県立美術館 - Wikipedia

現在の広島県立美術館(出典:Wikipediaより)
かつての観古館(出典:広島の風景HPより)

 
 アメリカ帰りの女学生たちのことを、想像してみてください。
 短波無線機の前で、昼夜を問わず、必死に米軍の交信を傍受していた、モンペ姿でセーラー服の女学生たちがいたことを……
 彼女たちは、どんな英語のやり取りを聞いていたのでしょうか?

 もしかすると、エノラゲイに先行するB29、ストレートフラッシュ号が発した

「00V670 Ⅴ21V675 – 0522(第313航空団対空地上局、こちらは第1目標気象観測機、グリニッジ標準時8月5日22時)助言、第一目標に投下せよ」

という電文を、あの日の朝、傍受していたのかも知れません。
             出典:広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia

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