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犬の字

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犬にまつわるエッセイです。 ・ブンの死①~⑩ ・葉の名の犬①~
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葉の名の犬⑤ コミュニケーション

 コミュニケーション

  二月二十二日

 犬は人になれないし、人は犬になれない。

 犬は人ではないし、人は犬ではない。

 犬は犬。人は人。生物種が違う。ある意味では究極の他者。

そのあいだのルールやことばは、ふたり(一人と一頭)で互いに関係を築き上げながらつくっていくしかない。

 どうやって会話をするのか。いつかは通じ合えるだろうという前提だけを頼りにして。

 互いの共通の認識、ルー

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葉の名の犬④ 幸福 いつかの手記より

葉の名の犬④ 幸福 いつかの手記より

 

幸福 いつかの手記より

 早朝、おそらく五時半を過ぎたあたりだろうか。目を覚ました赤犬が、私が眠っているソファのそばに移動してくる足音がして、くんくんくんくん私の顔の匂いを嗅ぎに来た。硬いヒゲが顔中をかすめてちくちくする。尻尾はパタパタパタパタ際限がなく、朝から何て嬉しそうなこと。私は目を閉じたまま「おはようさん」とか「起きたのかあむにゃむにゃ」とか口先だけで赤犬の機嫌をとりながら、眠りを

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葉の名の犬③ 穂の名

葉の名の犬③ 穂の名

  

穂の名

 ところで、こうして犬に関するつれづれを忘れずにしたためようと思いついた以上、私の相棒犬についてもきちんと触れなければならないだろう。

 葉の名の年長にあたる私の相棒犬は、赤い毛色の雌犬で、一緒に暮らして早五年が過ぎる。

 彼女には、穂を冠する名を与えている。

 春夏秋冬。朝昼夕方月明かり。この地の美しい田の風景を、私に代わり物語る名。

二月二十日
メモ

・葉の名。軟便

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葉の名の犬② 群れ

葉の名の犬② 群れ

群れ

 二月十九日

 今日は、新しく加わった葉の名の犬と、先住の相棒犬との世話とで私の一日が終わった。

 ご飯、散歩、庭での排泄や室内でフリーにして生活すること。これらすべてを二頭同時にやれたら楽なのだが、相性の問題でそれはまだできない。なぜかって、相棒犬の立場からすればそりゃそうだろうと思う。突然若い犬が現れて、自分はまだ了解していないし事態についていけていないのに、飼い主の私が勝手に連れ

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葉の名の犬①

葉の名の犬①

葉の名の犬

二月十八日

どういう巡り合わせなのだか、里親が見つかるまでの期間限定ではあるが、大型犬をもう一頭引き受けることになった。早くて一、二ヶ月。長くて半年以上はこの家にいるだろうか。けれど、「飼育放棄された」に加えてその他ウンヌンこれまでの経緯を聞いてしまえば手を差しのばさないわけにはいかなかった。こういう場合、決めるべき覚悟より情が先立つというものだ。

 

 昼、予め待ち合わせてい

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蜂の指輪

蜂の指輪

ブンの死⑩
九月四日 _蜂の指輪

歩く私の少しの振動。その振動がコンクリートに伝うが早く、路傍の猫じゃらしからわっと雀たちが飛び立つ季節になった。夏頃までは、若草色をしたマヒワの群れをよく見かけたが、秋の入口の今時は、雀の群ればかりが目に入る。猫じゃらしの穂花で腹を満たして冬に備えるのだろう。

わが家の老犬は死んで妖精になったようだ。

いくら探しても見つからなかった母の指輪が突然見つかった。

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鈴の音

鈴の音

ブンの死⑨
九月三日 _鈴の音

晩年の老犬は、人間でいうところの認知症だった。兆候を挙げればいくつも例はあるが、この犬に至っては徘徊が顕著だった。
放っておけばゆうに二、三時間、ひとときも休むことなく家中を歩き回るのだ。はじめの方は、用を足したいとか、母はどこだとか目的があるに違いないが、そのうちそれさえ忘れてただただ一心に歩く。おいら、歩く。
私たちも彼の夢遊の冒険癖にはすっかり慣れて、特段気

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闇底に_

闇底に_

ブンの死⑧
八月十八日 _闇底に

闇底にからすうり
散りし
逝きし犬

私の句。

…烏瓜の花は、散るのではなく萎むのか?

闇底にからすうり
萎みし
逝きし犬

言葉の教養、自然科学的知識。

老犬の_

老犬の_

ブンの死⑦
八月十六日 _老犬の

老犬の
夜闇に谺す
断末魔

夜の闇
老犬の断末魔二度

「夜闇」は季語ではないのではないか、と私。
ああ、そうか、と母。私は興をそそられた。

突然脳の発作に見舞われた犬を動物病院から連れ帰ったのは夜だった。犬はかつてなく自分をさいなむ激痛と混沌により、聞いたことのない声をあげた。ひどく高い声で、ひぁーーーーーん、ひぁーーあん、ひぁーーんと叫ぶのだ。声は裏返り

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花の香

花の香

ブンの死⑥
八月十三日 _花の香

火葬の朝、犬を横たえた箱をあけ、おはようと声をかけた。

ぎっしりと満たした花々の匂いがいっそう強く香ってくるが、亡骸はもう冷たく硬い。匂いもない。ああ、ブンの匂いがしない。新陳代謝の匂いがしない。

私はようやく、この犬の死を理解し、受け入れる。

ブンと母

ブンと母

ブンの死⑤
八月十二日 _ブンと母

この家に来たばかりの頃は、もう成犬に近い大きさで、体重は3500グラム。ちょうどあなたの上の弟が生まれた時と同じくらいの大きさだった。

抱っこしてみて。4キロ近くあるの、3800グラム。こうしていると、あんたたちが赤んぼだった頃を思い出す。あなたの下の弟くらい、一番大きく生まれたのだけど、それと同じよ、今のブンは。

今は年をとっちゃって、随分体重が落ちたけ

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弔い

弔い

ブンの死④
八月十一日 _弔い

犬を火葬で送る選択を、私は自分でも拍子抜けするほど自然と受け入れた。自分でも何故だかわからない。これまで一緒に暮らしてきた犬たちは皆、そのままの姿で土に埋めた。祖父母が所有する山の竹林にはロコがおり、ミーがおり、クロクマ(こいつは子猫だが)がいる。中腹にはルーさんがいて、一緒に植えたスズランの花が咲く頃は必ず会いに行く。ハナは、祖父母の農地の敷地内で、花々に囲まれ

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ブンの死③

八月十一日午後十時十八分
さようなら、ブン。

私はこの時を思い出すだろう

私はこの時を思い出すだろう

ブンの死②
八月十日 _私はこの時を思い出すだろう

一段落つくや否や、私は台所のICヒーターに直行した。慌ただしく家をあとにしたままで放置されていた全てのことを、何事もなかったように平静に始めた。DVDリモコンの一時停止ボタンを解除するように、この数時間の喧噪をはさみで切り取ってプラスチックのごみ入れを見もしないで適当に捨てるような変わりなさで「生活」を再生させた。

老犬の飯を準備している夕方

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