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本の感想を書いてます。

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本の感想をあまり長くなく、500字周辺を目安に書いたものです。
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『ヴェネツィアの家族』辻田希世子を読む。

『ヴェネツィアの家族』辻田希世子を読む。

『ヴェネツィアの家族』はタイトルからするとイタリア生活記です。ただ、ちょっと違うのですね。

この本のレビューを書きますが、背景について少々説明しておきます。

筆者の辻田希世子さんは友人です。20年近く前、彼女がヴェネツィアに生活していた頃、大学の同窓生としてミラノで知り合いました。彼女はヴェネツィアで10余年を過ごした後、イタリア人の旦那さんと別れ、娘さんを連れて日本に戻ります。

東京でも何

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真の文化はつねに、どんな観点から見ても、正しいフェアプレイを要求している。

真の文化はつねに、どんな観点から見ても、正しいフェアプレイを要求している。

文化の読書会ノート。

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第6章 遊びと知識  第11章「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷 第12章 現代文化における遊びの要素

競争とは遊びであり、その範囲は広い。神託、賭け、訴訟、謎に加え、知識や学問もその対象になる。宇宙開闢論的な思弁の基礎には遊びの性格があり、それらの説明はもともと祭式の謎からきている。

哲学的思考も例外ではない。知恵の探求者は、原始の

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世界の成り立ちなんてはっきり分かる訳がないーーパオロ•ジョルダーノ『タスマニア』を読む。

世界の成り立ちなんてはっきり分かる訳がないーーパオロ•ジョルダーノ『タスマニア』を読む。

何かの専門家が自らの領域のことで良い仕事をすると、さすが、と他人から言われる。その人が専門以外のことで良い結果を出すと、ひとつのことがてきると他に応用できるのですね、とか言われる。

ベースがあるんですね、とか。

例えば、人は他人の専門を生業と捉え、大雑把にその当該の人生の7-8割の価値のように評価し、残りを、まあ、いろいろとあるよね程度に見やすい。

だが、人の人生はそんなシンプルに区切れない

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大富豪の出版人の生涯から考えることー『フェルトリネッリ イタリアの革命的出版社』を読む。

大富豪の出版人の生涯から考えることー『フェルトリネッリ イタリアの革命的出版社』を読む。

頭や心だけでなく、身体も揺さぶられる本というのもそうないです。

カルロ・フェルトリネッリの『フェルトリネッリ イタリアの革命的出版社』を読み終わってすぐ、ミラノ共同記念墓地にあるフェルトリネッリの墓に足を運んだーーというのは、ぼくにとって初めての経験かもしれません。

本の最後に著者が出版社の創業者である父親の眠る墓地について書いているのを読んで、ぼくはその感覚を「身体的に」確認したくなったので

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『世界中から人が押し寄せる小さな村 ー 新時代の観光の哲学』を読む。

『世界中から人が押し寄せる小さな村 ー 新時代の観光の哲学』を読む。

「あの人は哲学があるね」とか「あの会社の経営には哲学を感じる」という言い方をよく耳にします。およそ、考え方や行動に一貫性があるとか、そういう場合ですね。

ただ、その後に「哲学は感じるけど、ビジネスはどうなの?」という冷めたコメントがつくこともあります。しかし、「商売はまわっているようだけど、哲学がないんじゃない?」と言われるよりはマシかも、との見方はあるでしょう。

さて、「アルベルゴ・ディフー

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文化は遊びの”なか”に始まるー「文化から遊び」でも「遊びから文化」ではない。

文化は遊びの”なか”に始まるー「文化から遊び」でも「遊びから文化」ではない。

文化の読書会ノート。

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第2章 遊び概念の発想とその言語表現 第3章 文化創造の機能としての遊びと競技

ブルクハルトとエーレンベルグは古代ギリシャを例に「闘争から遊びへ」との見方を適用した。つまりは闘技の隆盛から堕落という道を分かりやすく描いたようにも見えるが、それに対してホイジンガはNOと言う。

「闘争から遊び」でも「遊びから闘争」でもない。「遊び的競争のなかに

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「ラグジュアリー観光」と「テリトーリオ」は繋がるか?

「ラグジュアリー観光」と「テリトーリオ」は繋がるか?

学生時代から海外に旅に出かけ、30年以上、イタリアに住んでいるので、それなりの数の国や地方に滞在したことがあります。でも、だからといって「旅、大好き人間か?」と問われると、「う~ん、どうだろう・・・」という答えをしがちです。

旅とは「冒険」なのか?

旅が嫌いなわけもなく、旅に行けば行ったで心を躍らせる数多の経験をしてきました。それでも何となく口をもごもごさせるのは、基本、ぼくの旅の動機は「誰か

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マウンティングはこの世からなくならないーでは、どうする?

マウンティングはこの世からなくならないーでは、どうする?

「他人の自慢話を聞くのが好き!」という人は、そんなに多くないでしょう。でも、「他人の自慢話をその人の心理分析に使うよ」と語る人は少なくないかも、です。それも自慢げに 笑。

ぼくはまだ読んでいませんが、「人生が整うマウンティング大全」という本があるそうです。

マウントが人間模様としておかしいのは、「本人がマウントをとるつもりの場合」、「本人はマウントをとっているつもりがまったくないのに受け手がマ

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遊びの規則に対して懐疑はありえない。

遊びの規則に対して懐疑はありえない。

文化の読書会ノート。

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』序説および第1章 文化現象としての遊びの本質と意味

(序説によれば、ホイジンガの関心は)文化そのものがどこまで遊びの性格をもっているか、である。遊びが文化においてどういう位置をしめるか、ではない。これをテーマに本を書くに情報が十分ではないとは承知のうえで、彼は本を書くことにした。

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遊びは文化よりも古い。子犬がじゃれる様子を

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活動なしに快楽は生じない。同時に、あらゆる活動を完全なものにするのも快楽である。

活動なしに快楽は生じない。同時に、あらゆる活動を完全なものにするのも快楽である。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第10巻 快楽の諸問題と幸福の生

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる(読み終えたので、正確には「きた」)。

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第10巻は前半、快楽について論じ、半ば以降は幸福を語り、後半は知性の至高性や徳と幸福を経由して教育・立法・政治で終わる。つまり政治学の序章にあたる。

ここでは快楽について

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書き言葉は話し言葉の影に過ぎない

書き言葉は話し言葉の影に過ぎない

文化の読書会ノート

納富信留『ソフィストとは誰か』第2部第8章 言葉の両義性ーアルキダマス『ソフィストについて』 結び ソフィストとは誰か

(アリストテレス『ニコマコス倫理学』と本書を交互に読んでいる)

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アルキダマス『ソフィストについて』は、古代ギリシャの知的活動にあった、今の時代では忘れ去られた影を時代の証言として浮彫にしてくれる。

「語り言

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恋することは、友愛のある種の超過。

恋することは、友愛のある種の超過。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第9巻 友愛(続き)

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

(第8巻の感想でも書いたが、友愛の巻は、時間を越えて説得性の高い部分だ。この9巻のまとめでは、いくつかのポイントに絞ってとりあげる)

一つ目が好意と友情関係だ。

両者は似ているようで違う。好意は一方的で、友情は相互作用だ。そして、好意は「愛すること」でもない。

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人は友になる気のない者を友にしてはならない。

人は友になる気のない者を友にしてはならない。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第8巻 友愛

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

友愛は人が生きるにあたって必要であり、かつ美しいものだ。ここでは、友愛のうち、人間のさまざまな性格や情念にかかわる問題を考察する。

友愛はすべての人が対象なのか?友愛には複数あるのか?

それには「愛されるもの」を知ることが前提になる。1)善きもの 2)快いもの 3)有

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快楽と苦痛について研究することは政治哲学者の仕事になる。

快楽と苦痛について研究することは政治哲学者の仕事になる。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第7巻 抑制のなさと快楽の本性

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

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人の「抑制のなさ」とは何を指すのか?

「意思の弱さ」「脆弱」「忍耐のなさ」といったことと同じなのか?違うのか?

ソクラテスは行為者の無知によって「抑制のなさ」が表出するというが、それならば、無知のありかそのものが問われ

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