#障害
自分が抱くバイアスに気付くのは辛いし苦しいけどなかったことにはしたくない
「マイノリティであるが故にどうしようもならなかった経験」を持っていないと得られない感覚はおそらくあるんだろうと思う。
ここのポイントは、社会の物差しがどうであろうと、「自分が自分をマイノリティと自覚し、それが理由でどうしようもない、頑張ってもダメだった」という経験を持っていると自分が思うかどうか。世の中や他者がどう思うかはあんまり関係ない。
「マイノリティだけどどうにかなった人」「自分がマイノ
「たまたま残念な支援者にあたりました」を無くすための仕組み
まだちゃんと言葉になっていないしまとまってないけれど書いてみる。
最近思っているのは、やはり対人支援職として必要な「資質」はあるということ。支援技術は身に付けることができるけれど、資質はなかなか難しい。例えば、目の前のその人に関心を持ち続けることができること。自分の正解を押し付けるのではなく、その人にとっての正解を模索し続けることそのものを楽しいと思えること。支配的になる自分に気がついた時に絶望
「障害のある人が生きやすい社会」と「やる気がない人に寛容である社会」は繋がっている
昨日はお声かけいただき、Schooさんの生放送授業「僕らの哲学座談会」に出演してきた。テーマは「障害と教育」。
1時間、インターネット上で授業を受講くださっているみなさんのコメントを見ながら問いを設定し、それに対して対話をしていくスタイル。
「障害」や「教育」に初めから関心のある人向けに講演をしたり、お話ししたりすることは多いけれど、より一般の方と広く話す機会はなかなかないため、非常に興味深い
当事者の声を置き去りにした「社会課題の解決」のもったいなさ
書くかどうか躊躇する。書くことで、余計にハードルが高くなるかもしれない。「まずは興味を持てるようにすること」が大切なのもよくわかる。でも、置き去りにしたまま進めて欲しくないから書くことにする。私はそういう役割を担っていきたいと思う。
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いろんな方から相談を受けることが増えた。
「発達障害のある人の支援をしたい」
「学校教育を変えたい」
「触法障害者の支援をしたい」
多くの方が関心
誰もを包含できる完璧なシステムなんて多分ない、だから作ろうとし続けることをやめない
どんなに素晴らしい仕組みを作ったとしても、そこからこぼれてしまう人は多分いるであろう、という想像力を失いたくない。
自分が想像できる範囲の人たちは限られており、常に想像を超える人たちがいる、という前提。
もちろん、だから新しい仕組みを作ろうとする。既存の仕組みを変えようとする。誰もこぼれないようなシステムにいつかたどり着けるのでは?いつか作れるのではという希望を持ちながら、でも頭のどこかで必ず「